どうも、コムヨシです。
先日、こどもおぢばがえりに行ってきたんですが、改めて気づいたことがありました。
それは、こどもおぢばがえりに参加する人も受け入れをする人も、みんながMAXで輝いてるってこと。まさに、陽気ぐらししてんなーって感じたんです。
でも、その輝いてる人達のほとんどが普段は天理教の組織に対して不満をもっていたり、陽気ぐらしできずに悩んでいたり、布教に歩けない自分を蔑んでいたり、全然輝いていない。
こどもおぢばがえりではなぜみんな輝いているのでしょうか?
こどもおぢばがえりは人が輝く秘訣が凝縮されている
ボクが今回こどもおぢばがえりに参加して感じたこと。
それは、こどもおぢばがえりの全てが陽気ぐらしの実践の場だっていうことでした。
こうやって聞くと
「当たりまえだへな」
ってなると思うんですけど。本当に当たり前なんです。
でも、当たり前じゃないくらい今、天理教が陽気ぐらし出来なくなってきてるって感じてたんです。
なので、今回発見したことはボクにとってとても大きな喜びでした。
ボクは、10年以上前に布教師に憧れて色んな本を読んだり、講演会があると聞けば知らない先生のお話であっても時間を作って聞きに行って、自分のものにしようと必死になって吸収しようとしてました。色んな先生の壮絶な布教体験は読んでも、聞いても感動の嵐でした。
とにかくむさぼるように本や話を求めていたんですが、ある時を境に、まったく感動しなくなっちゃったんです。
その時は「体験談が弱いから感動しないんだな」って思ってたんですけど、以前のボクなら間違いなく泣いていたのに、泣くどころか感動すらしない。
それがなぜだったのか最近になって分かったんです。
なぜだったかというと、
アウトプットされない情報(体験談)が消化されず、単なる知識としてだけ蓄積され、頭でっかちになってしまっていた
っていうことだったんです。
そもそも、本を読んだり講話を聞いたりすることっていうのは、感動するためにインプットしているんじゃなくて、自分が実践するための予備知識であったり、共感する部分をアウトプットするためにインプットしているんです。
つまり実践が大前提だってことなんです。
他人の体験談として自分にインプットされた情報を、何かしらのアウトプットをすることによって、他人の体験談だった情報が、自分の軸を形成します。
人にとって一番大切なのは、自分軸を形成する事だと思います。
この自分軸を形成するためには、アウトプットをすることが絶対です。
つまり、アウトプットをしない人は一生自分軸が形成できないということになります。
布教活動というアウトプット
では、天理教においてのアウトプットとは一体どんなことが挙げられるでしょうか。
真っ先に浮かぶのが布教活動でしょう。
教えを伝える=布教活動となる方が大半ではないでしょうか。もちろんこの方法は大切ですし、私にとっても大事な形の一つです。
でも、これを実践できる人は極めて限られています。
冒頭でも記した通り、布教するには勇気や恥ずかしさを克服する強い精神力が求められます。
つまり、不得意な人が圧倒的に多いんですよね。
みんな天理教がイヤな訳じゃなくて、天理教としての生き方のゴールが布教師的な雰囲気がイヤなんですよね。
布教師っていう生き方が、しんどいというか重い。
布教師として生きるのはイヤ。でも他にやり方がわからない。
これが天理教の現状ではないでしょうか。
それなのに
「苦手とか、不得意とか、そんなこと言ってるからダメなんだ」
「つべこべ言わずにだまって実践しろ」
この言い分も一理あります。っていうかボクもちょっと前まではこんなこと言ってましたww
この悪循環が、更にやる気を喪失させ、その組織に魅力が生まれないから若い人達も参加しようと思わない。
布教師以外の方法でアウトプットするには、一体どうしたらいいのでしょうか。
布教以外のアウトプットを見つけることから始める
いえ、決して人だすけなんて大それたことはしたことないんですが、最近思うことがあるんです。
天理教は人だすけが仕事だとも言われます。
たとえば、不治の病で苦しんでる人を奇跡的に回復させたり、精神的な病で苦しんでた人が天理教の話を聞いただけでスッキリ回復したりとか。そういった医者や薬では助からないと言われた人達を助けることが人だすけの仕事の一つです。
ボクは人だすけなんて全くできていないので、こんなこと言う資格は全くないんですが、
いわゆる困っている人達が、仮に奇跡的に助かったとします。
もちろん本人もその家族も、たすけたその人も大喜びでしょう。でもその後はどうなるのでしょうか。
代表的なことは、やはり布教師でした。
もしくは教会に住み込んで、会長さんの手足となって働く。
つまり、今までの仕事を捨てて生きることを求められたんですね。
そういう人達が別の人を助けて、新しい教会をたてる。
こうして天理教は栄えてきました。
でもそれはたすけられた人のごく一部だと思うんです。
多くの人は、布教師という生き方や窮屈な教会生活に嫌気がさして逃げ出していると思うんです。
「いんねんに負けた姿」だとか「勝手気ままな心づかい」だとか、後ろ指を指されているその人達は、そんなに悪いのでしょうか。
ボクが最近感じるのは、その人達が悪かったのではなく、その人達に合った天理教人としての生き方、アウトプットの仕方を教えてあげられなかったことが原因なんじゃないのかなって思うんです。
こんだけ素晴らしい情報が溢れた世の中なんだから、もっといろんな選択肢があったっていいじゃないか。
ぼくがブログを書くきっかけを作ってくれた
布教についてどうこう言う前に大切なのはコレなんです | あれもこれも
にも書かれていますが、やっぱりそういうことなんですよ。
自分の目の前にいるひとが、たとえ本人が困っていなかったとしても、
「もっとこうすれば、もっとハッピーになれるのに」
って思うことってあると思うんです。
もしかしたら、それを伝えることはその人にとって余計なお世話かもしれません。
だからこそ、形が大切だと思うんです。
この人に、◯◯な未来を生きてもらいたい。そのために必要なのは◯◯だ。それを実現するために自分は◯◯な手伝いができる。
っていうことを示してあげること。
これも立派な人だすけなんですよね。
病人をたすけてあげるのも立派なことですが、天理教の目的は病気を治してあげることではなく、その人が陽気ぐらしできるようになってもらうことなんですよね。
だから、病気を治してあげることはその前段階。大事なのはその後だと思います。
でも、多くの人が、病気の人をたすけることが天理教の目的だと思っていて、しかもそれがあまりにも難しいテーマだから
「自分にはできない」
ってなってしまう。
それだけの先入観で、結局何もできないまま「自分はなんて情けないんだ」と蔑んでしまう。なんてもったいないんでしょう。
大事なことは、自分は他人に対して何を提供できるのか。どんな価値をもっているのかということです。
そして、その価値を提供するにあたって、大事なことが心だということですね。
ボクが輝けること。アナタが輝けること。これをアウトプットしよう。
だらだらと長くなってしまいましたが
こどもおぢばがえりで感じたことは、みんな好きなことなら輝けるってことです。なぜ輝けるかっていうと、自信をもってるからなんです。
これをやると、子ども達が喜んでくれるっていう自信がある。
これに参加させると、子ども達が喜んでくれて、素晴らしい影響を与える自信がある。
自信がある人の目は、必ず輝いています。
その輝きをみて育った子ども達は、必ずそこに憧れや魅力を感じます。
でも、こどもおぢばがえりが終わると、みんな死んだ目をしてるんです。普段の天理教に自信がもてないから輝けないんです。
だったら、自分が自信を持てることをやりましょうよ。
自信をもってれば、かならずアナタは輝いていて、そこに魅力が生まれ憧れが生まれます。魅力や憧れに人は寄ってきます。
教えを伝えようとする必要なんてなかったんですね。
ボクが輝けること。アナタが輝けること。
たったこれだけで、世界は確実に陽気ぐらしに一歩近づく。
今日も一日陽気ぐらし!
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