ども!コムヨシです。
現代の仏教界に大きな刺激をもらっているコムヨシですが、今朝こんな記事を読みました。
そしてこんなことをツイートしました。
昨日ブログでまとめようとして断念したモヤモヤが言語化されててスッキリ。
・縛られている
・しがらみがあるこれの本質って「恐れ」なんだとわかった。
恐れに立ち向かうより縛られてる方が楽なんだよな。今こそ問われる、宗教者のリーダーシップ | 彼岸寺 https://t.co/i6i3MucNc3
— コムヨシ@天理教2.0 (@com_yoshi_) 2019年8月8日
昨日のブログっていうのがこちら
このブログで書きたかったことは、未来をつくることができない人は過去にしばられがち、っていうことだったんですが、縛られているっていうことの具体的な説明を付け足そうと試みながらも上手くまとめられなくて断念していました。
そんな時に、冒頭の記事のある一節を読んで「なるほど」ってなったんです。
誰かの怒りに触れたくない
これでした。
これです。縛られがちの原因はこれです。ってボクは思いました。
昨日の記事と合わせて読んでもらえればわかりやすいかもです。
誰かのせいにして自分を守りがち
冒頭の松本さんの記事のどの部分に共感したのかというと、
中略
私自身が自分の心を見つめてみると、過去のあらゆる選択が「恐れ」によって突き動かされてきたことに、はたと気がつきます。私はよく人から「人生の選択の仕方が、勇気ありますよね」と言われることが多いんですが、現実はまったく逆でした。自分でもこれまであまり気付いていませんでしたが、自分の心をよくよく見てみると、勇気どころか恐れに満ち満ちています。「誰かの怒り(として現れた恐れ)に触れたくない」という恐れ、といえばいいでしょうか。他人の地雷を踏まないように気をつけてひたすら臆病心から生きてきた結果、はたから見たら大胆な行動を取っていたという、皮肉。自分がお坊さんという形で宗教の領域に流れ着いたのも、きっと恐れを解決したい気持ちが根底にあったんじゃないかと思います。
例えば、教団のあり方に問題があるとか、「理の親」に代表される教理解釈の問題を取り上げた時にありがちな、「上のせいで」とか「上が変わらないから」という議論。
これに対してボクは、「どうせ上は変わらないんだから自分の環境を変えてこうよ」ということを主張してきました。
つまり、
- 上なんか気にすんな
- てめーがやりたいことやれ
ということをブログを通して訴え、自分自身もそうあるための努力を続けてきました。(今もそのあり方を模索している最中です。
でも、ボク自身変われずにいた時があったわけで、その時はどんな状態だったんだろうと振り返ってみました。
- 上級は理の親
- 理の親は神様と同じ
- どんな理不尽だろうと素直に受ける心が大切
- それで自分がたすかる
- 教会も栄える
信じてもらえないかもしれませんが、ほんの数年前までボクはガッチガチでした。
立ててなんぼ、つくしてなんぼ。
徹底して上級を立て切ってました。
でもいつからか、天理教の本質は別のところにあるんじゃないかと疑問をもち始めたころから、少しずつ自分のやってきたことに疑いをもち始めるんです。
「自分がやってることは天理教じゃない」と確信できてからは葛藤の連続でした。むしろ苦しくなったのはそれからだったかもしれません。
「おかしい」とわかっていても「自分が理想とする姿」にシフトチェンジできないジレンマ。
あの時、なぜシフトチェンジできなかったのか。
恐かったからなんです。
- 御守護をいただけなくなるんじゃないか
- 子供になにか起こるんじゃないか
- 自分自身に何か起こるんじゃないか
まるで誰かに脅迫されているようでした。
そしてなぜ自分が怯えながら信仰しなければならないのかを考えるようになります。
つまり犯人探しをしたんです。
自分が楽しく信仰できない、自分の信仰を妨げている犯人を探したんです。
犯人は特定されました。そして犯人を非難し続けました。
でも何も変わりませんでした。むしろどんどん苦しくなりました。
それが何故だったのかようやくわかりました。
自分の現状が思い描いたものでなかった時、(自分のせいではないことを)誰かのせいにして自分を正当化していたんです。
怒りに触れないための信仰
「縛られている」という表現には、「自分の意志とは無関係」というニュアンスを感じます。
これを別の言葉で表現してみると、
「上のせい」という強力な盾で自分自身を守っている状態
だと思うんです。
全くもってボクはこれでした。(今も?)
何から守っていたかというと、
- 病気
- 怪我
- 家族のトラブル
- 仕事のトラブル
- 人間関係のトラブル
いわゆる、「神様から見せられる」っていうやつから守りたい。そのための信仰なんだと。
もっというと、楽だからです。
自分を変える必要がない、挑戦する必要がないから楽なんです。
だって、自分が楽しくないのは自分のせいじゃなく、上のせいだから。
っていう思考回路。
これは結局、天理教の本質を分かっていなかった自分の無知が招いた結果だったと思うんです。
正しい教理を身につけたい
正しい教理を学ぶことによって、自分自身の生活が豊かになればいいし、それによって自分の身の回りの人を1人でもハッピーにできたら最高。
そして正しい教理理解ができていれば、教団がどうあろうと上級がどうあろうといちいち動揺することもないと思います。
そのためにボクは、コムヨシ布教所というオンラインサロンで教理勉強会を始めました。
それに関する記事も少しずつアップしているので、良かったら覗いてみて下さい。
サロンメンバーになると、勉強会に参加できますし、勉強会動画のバックナンバーを全てみることができます。
勉強って1人じゃ飽きるし、大変だし、何から手をつけたらいいのかわからないし、とにかく大変だと思います。
でも、系統、地域、立場を越えて、楽しく学べる、この環境は天理教内ではおそらくここしかないと思います。
正しい教理理解を進めて、自分自身の恐れを一つずつ取り除いて、理想とする信仰のあり方や教会のあり方を模索するきっかけにしてみて下さい。
今日も一日陽気ぐらし!
コメント
いつもお世話になります。
いつも興味深く拝見してます。
教会や天理教と関わる人のしがらみで
信仰があまり楽しくないんです、っていう人に
風穴を開けるような
するどく突き刺さる記事ですね。
ちょっとお聞きしたいのですが、
コムヨシさんが、上級を立てまくっていた数年前と
現在とでは、具体的に
上級教会との関係はどのように変わったんでしょうか?
例えば「上級の月次祭は毎月⇒今は、3ヶ月に1回行くようになった」とか。
上級へのお供えを○○○円⇒▲▲▲円になったとか。
こういうわかりやすい数字で
表現して頂けるとうれしいです。
それから、月次祭(オンラインじゃない方)についてです。
準備とか片付け、実施が、
ぶっちゃけ「やれやれ・・・」とか「めんどいなぁ・・・」って
思うことはありますか?
私が修養科中に、同じ詰所の修養科生で、
教会の息子さんの人に、思い切ってw
聞いてみたことがあります。
そうすると、
「これは言っちゃいけないことですよ・・・。
横で聞いている○○さん(信仰熱心な信者さん)、きっと怒ってますよ」
と答えが返ってきて
やはりな・・・(笑)という印象でした。
どこかの有名な神宮にも月次祭があって、
昔は毎月やってたんですが、今は2~3か月に1回だったと思います。
そこらへんのコムヨシさんの
個人的見解を頂けたらたいへんうれしいです。
ありがとうございます。
にっしーさん
いつもコメントありがとうございます!
前提として、ボクは今年の3月のお運びをもって、会長を辞任しています。
さらに、5月のお運びをもって実家の教会長に就任しています。という前提で話を進めますね。
上級への月次祭は今年の3月を機に、一切行っていません。行くのを完全にやめました。
上級へのお供えに関しては、そこは会長個人の思いだけではないので、前会長の時と同じ額でとりあえずやってます。
熱心な信者さんから、
「上級に行ってないらしいですけど、ちゃんと勤めを果たしてもらわないと困ります」
というクレームをいただきましたが、なぜボクが上級へ行かないのか、一対一になって丁寧に説明させてもらいました。
具体的には
・会長が上級の月次祭にいくというのは当たり前のことではなく、全国には色々な教会があるということ
・上級への運びと自教会の発展には必ずしも因果関係はないこと
・天理教全体が低迷している中で、これまでと同じ事をやっていては何も変わらない、変われない
・一旦今までやってきたことをゼロにして、何が大切か、私たちは何を大切にしていきたいのかをみんなで探していきたい、見つけていきたい
・上級へ行かないのは個人的な我がままはゼロではないけど、一旦ゼロにもどすという考えのもとだ
ということをお伝えしました。
どれだけ伝わったのかは分かりませんが、上級への不満があるから、という理由だけではないということや、上級へいくのが当たり前ではないという話にはとてもうなずいておられました。
それでも、
「気が変わったら、また上級に行って下さい」
と言っていたので、ほとんど伝わってなかったのかもしれませんが(笑)、それでも面と向かって話をしてくれたことが嬉しかったらしく、ボクの意見を全面的に受け入れてくれました。
と言う感じです。
こんな感じで大丈夫でしょうか?