【教会長物語】教会長が陥りがちなドン引きされやすいおさづけの取り次ぎ方

教会長物語

どうも、コムヨシです。

今回はコム次郎シリーズの「おさづけ編」として、ボクが会長に就任してからの「おさづけ失敗談」をまとめてみます。

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おさづけって何?

おさづけは、「別席」とよばれる神様のお話を9回(全く同じ話)聞いた人が戴くことができるもので、病気やケガなどの平癒を神様に願い、自分を通して神様に働いてもらうための行いです。

おさづけを戴かれた人を「ようぼく」と呼びます。

誰だって人の助かりを願うものなので、おさづけは誰でもできそうに思います。

ですが、いくら信仰心が熱い方でもおさづけをしたことのない人が多いんです。

それには何個か理由があると思うので挙げてみると、

  • 恥ずかしい
  • 自分のは効かない(と思っている)

やったことのない人の多くは、恥ずかしいと効かないが理由だろうと思います。

ボクは、会長になる前からおさづけはやってたけど、どうしても自信のないことがありました。

おさづけは話一条

ボクは本に載っているような布教師に憧れていたので、彼らのように、人を感化できるような話を身に付けたいと思っていました。

  • なぜ病気になったのか
  • 神様の思召しはなんなのか
  • これからどんな通り方をしたら良いのか

そんなことをスパッと伝えれるようになりたいと思っていたんです。

それを一番伝えやすい状況こそが、おさづけの時だと思っていたので、とにかく勉強して知識を身につけようと必死でした。

ボクは布教にはほとんど出れなかったんですが、日参を始めてくれたおばあちゃんが、地域のババ友をたくさん連れてきてくれるようになっていたので、連日おさづけを取り次ぐ機会に恵まれていました。

そこでボクは、覚えたての教理や知識を惜しげもなく伝え、おさづけを取り次ぎました。

教理の押し付け

ある晩、

「娘におさづけを取り次いでもらいたい」

と急に訪ねて来られました。

夜9時を回っていたので、晩酌しててそれなりに出来上がっていました。

断ればいいものを、変な責任感を感じて取り次ぐことにしたんです。

当時の話一条のスタイルとしては、とにかく心定めをしてもらうのを前提にしていました。

その娘さんは、教会の役員姉弟だったんですが、他の兄弟に比べて教会への出入りが少なく、天理教に対してもどちらかといえばネガティブな感じでした。

そんな背景もあってか、今回の病気を通して心を入れ替えてもらいたいという思い(教会側の都合)が普段以上に強く出ました。

また、お酒の力で少し気持ちが大きくなっていたのもあり、語気も自然と強くなり、ボクの話を受け入れたくない娘さんはかたくなになり、ボクも受け入れてもらえない苛立から最終的に口論になってしまいました。

そして最後に

「そんな態度なら、おさづけは取り次ぎません!」

と捨て台詞を吐いてしまったのです。

それからというもの、彼女はこれまで以上に教会と距離を置くようになり、きまずい関係はしばらく続きました。(今では割と仲良しです…多分)

ありえない話ですが、会長就任当初は本当にこんな感じでした。

真面目な人程陥りやすい

いま思い返せば、本当にありえないことをやっていたコム次郎ですが、当人はいたって真剣で、よかれと思ってやっていたんです。

天理教の会長(もしくは教会)と信者さんの関係の隔たりの多くは、この「良かれと思って」の部分が引き金になっているように思います。

しかしその「よかれ」は信者さんにとっては「よけいなお世話」だったり、「お前が言うな」だったりするわけです。

よかれと思ってやっていることが、かえって関係をこじらせることが決して珍しくないんですね。

そういえば、熱心なおばあちゃんが連れてきてくれたババ友も、一度のおさづけを受けたきり二度と教会に来なくなったのも、ボクの余計な一言や、押しつけが原因だったのかもしれません。

時間は元には戻せないので、いくら後悔しても始まりませんが、こんな経験を経て今のコムヨシがあるのは間違いありません。

会長就任当初、こんなブログに出会っていればボクの会長人生も少しはましなものになっていたのかなあ、なんて思いますが、これもまた人生ですね。

おさづけはとにかく信頼関係

ここまで、いかにしてドン引きされたかをまとめてきました。

今更言うまでもないですが、良いおさづけは、良き信頼関係に基づいていると断言できます。

知り合いだからとか、初対面だからとかの関係ではなく、

「この人だったら任せてもいいかも」

と思ってもらえる関係をいかに構築できるかがポイントだと思います。

押しつけはもちろん御法度です。

厳しい言葉や、おせっかいのような言葉をかけて、向こうが受け入れてくれることもあるかもしれませんが、そこにも、やはり信頼関係があります。

信頼関係があるからこそ、言う方も言うし、受ける方も安心して厳しい言葉を受け入れる事が出来るんですね。

若かりしボクは、上辺だけの形を真似て、「たすけたい」という心が全くなかったからこそ、失敗が続いたのだと思います。そこには信頼感家が皆無でしたから。

いまはほとんど地域の方におさづけを取り次ぐ機会はなくなりましたが、どうしたことか、地鎮祭やお墓修繕のお祓いなどを依頼されるようになりました。信頼関係構築に勤めた結果として現れてきた姿なのかなとも思ったりします。

人生はとにもかくにも信頼関係ですね。そこにごまかしはききません。だからこそ人生は面白い。

今日も一日陽気ぐらし!

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