ども!コムヨシです。
前回と、前々回の記事で、コムヨシ布教所の「オンライン教理勉強会」の第1回目の内容をお伝えしました。
今回の記事では、第2回目の内容をまとめてみようと思っていますが、おかきさげからはちょっと離れた内容になっています。
どんな内容かというと、
よふぼくの定義
についてです。
「は? よふぼく=おさづけ拝戴者のことじゃねーの?」
という声が聞こえてきます。
確かにそうなんです。でも、ヒサマツくんはそういった認識ではなかったというんです。
どういうことなんでしょうか。
今回の記事では、一般的にはあまり認知されていない(であろう)「よふぼくの定義」についてまとめてみようと思います。
「おさづけ拝戴者」と「よふぼく」
今回の議論は、第1回目の勉強会の中での質疑応答から偶然生まれたものでした。
まずは質問の内容をみてみましょう。
【質問】
現代のおたすけにおいて「おさづけの取り次ぎ」よりも「話の取り次ぎ」にシフトしている気がしている。自分自身もおさづけは現代のニーズに合っていないと感じています。
その中で、「おさづけの取り次ぎ者としての心構え」である「おかきさげ」の重要性はどこにあるのでしょうか。
という質問です。
これに対するヒサマツくんの答えは、
おかきさげは「ようぼくの心構え」なんです。
つまり「よふぼくとしての生き方」が書かれているもので、おさづけどうこうの内容ではないんです。
おさづけを戴いたからおかきさげ、ではなくて、よふぼくになったからおかきさげ、というイメージです。
でした。
ここで10秒程の沈黙が続きます。
なんとなく、わかったようなわからないような。
この沈黙を破ったのは、そう、コムヨシでした。
よふぼく=おさづけの理拝戴者、じゃないの??
あーーー!そういう意味ですか!
ボクの認識と全く違います。
ボクの中で「よふぼく」っていうのは「おさづけは関係ない」です!
そして、
次のヒサマツくんの一言で参加者一同驚愕の事実を知らされる事になります。
ボクの中で「よふぼく=おさづけ」っていうのがほぼゼロに近いぐらいなかったので、質問の意味がわからなかったです(笑)
ボクの認識ではよふぼくっていうのは「天理的な生き方をする人」っていうイメージです。
つまり、ヒサマツくんの解釈では「よふぼく=天理的生き方をする熱心な信者」だというんです。 なので、おかきさげはおさづけを取次ぐための心構えではなく、天理的に生きようとする人へ対する心構えを説かれたものという構図になるのだといいます。
ガビーン!!
天理教教規で「さづけの理拝戴者=よふぼく」と定められている
とはいえ、昭和34年の天理教教規(天理教の規則)改正で「さづけの理を拝戴するとよふぼくとなる」と記載されています。
天理教教典が発刊されるまで、「よふぼく」という言葉は一般的にはあまり使われていなかったようです。
ということは、天理教教典が発刊される前と後では、「よふぼく」という言葉の認識に大きなズレが図らずも生じてしまっているということになります。
現在における一般的な解釈としての「よふぼく」は「おさづけの拝戴者」という図式でまちがいないようですが、「教理としての解釈はどうなの?」というところがポイントになりそうですね。
その辺は次回以降の記事で詳しくまとめようと思っています。
まとめ
今回の記事では、
「よふぼく=おさづけの理拝戴者」なんだけど、それは昭和34年に定められた定義であって、おさづけの理拝戴者にだけ限定した言葉ではないようですね〜、っていうまとめにしておきます。
おかきさげを拝読する上で、「よふぼくの定義」はとても重要な意味をもっているということも学ぶ事が出来ました。
次回の記事では、別の質疑応答をまとめてみます。
質問の内容をチラッと紹介すると。
「おさづけは誰のために、何のために渡されたのか?」
っていう質問です。
次回もアナタの常識をぶっ壊す「創造的破壊」をお見舞いします!
では!
今日も一日陽気ぐらし!
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