ども!コムヨシです。
教会長を交代するということで、10年近くにわたって暮らしてきた教会にある私物の整理に追われております。
なんとまあ無駄な荷物が多いことか。
なんでこんなものを大事にとっておいたんだろうか。
中には捨てるに捨てれない思いでの品もたくさんあるわけですが、それにしても「ゴミ」の多いこと。自分が情けなくなりました。
というのも、最近ミニマリズムに傾倒していて、ボクのライフスタイルにかなりの影響を与えてきています。
そんな影響もあって最近はモノをいかに減らすかということがテーマになってきていて、「大事なもの」か「ゴミ」という2択でモノを識別する感覚が身に付いてきたらしいんです。
だから正確には、ゴミが増えたんじゃなくて、「ゴミ」だと認識する自分の感覚が変わっただけなんだと思います。モノはどこまでいってもモノですからね。
モノを減らすことで本当に暮らしがスッキリしてきてます。
それと同時に気づいたことがあります。
天理教も断捨離したらもっとスッキリすんじゃね?
「しないこと」「やめること」という選び方が必要になってきてるんじゃないかと。
つまり、「教えや思考の断捨離」をするべきだなって思ったんです。
今回の記事は、ボクがミニマルなライフスタイルを求めたきっかけや、今取り組んでいることなんかをまとめてみようと思います。
徹底したミニマリズム|ミニマリストという生き方
まずはミニマリストという生き方をどうやって知ったのかを振り返ってみます。
一番最初に知ったミニマリストは「ミニマリストしぶ」という方です。
しぶさんを知ったのは本当にたまたまで、ボクがフォローしている「プロ無職るってぃ」さんのYOUTUBEチャンネルにゲスト出演していたことがきっかけです。
毎日同じ服!?ガチミニマリストに「ミニマリズムが最強の理由」を聞いてみた
この動画で初めて「ミニマリスト」とか「ミニマリズム」という言葉を聞いたんですが、そのライフスタイルにとにかく衝撃を受けました。
それからしぶさんのブログを読みあさるようになり、徐々にミニマリストへの知識を深めていきます。そしてこの頃には完全にしぶさんのファンになっています。
しぶさんは最近YOUTUBEも始めていて、そっちも本当に勉強になって面白いのでぜひチェックしてみて下さい。
片付けや捨てる技術を学ぶより、ずっっっと大事なこと
以前もブログで書きましたが、ミニマリストという生き方の一番好きなポイントが
物が少なくなるほど、1つ1つのありがたみが嫌でも分かるし、物に感謝できるようになった。
多すぎる物は重りになってしまうけど、少なからず物がないと生活できないのも事実。
だから物は大好きだし、これからも自分を支えてくれる物だけを選んで所有しよう。
モノが要らないっていうことじゃなくて、自分にとって本当に必要で大事な「モノを知ろう」という考え方がとても突き刺さりました。
好きなものや大切なものだけに囲まれて生活することで、ストレスも減るし、何より自分を満たしてくれる「モノたち」に常に感謝できるようになるっていうんです。
思い出したように感謝するんじゃなくて、常に感謝できる状態を保てるって言う感じでしょうか。すごくいいなって思いました。
そんなしぶさん、なんと書籍まで出版しちゃってるんですよね。
逆輸入されたミニマリズム|スティーブ・ジョブズと座禅
最近、別のミニマリストである佐々木典士さんの本を読んだんですが、その中で特に印象的だったのは、ミニマリストとして有名だったAPPLEの創業者スティーブ・ジョブズは座禅に傾倒し、本気で修行に打ち込みたいと思ったほど禅にハマったっていう部分です。
「無駄なものを削る」というAPPLEならではの製品作りは、ジョブズが愛した禅から得た考え方だったらしいんです。
APPLE製品は日本で特に人気が高いとも言われていますが、元来日本人がミニマルを好む民族だということも関係しているんじゃないか、という説明もありました。
なんかそんな話を聞くと、禅にも興味が湧いてきたしなんか勉強してみようかなとか思いますよね。
なんでもかんでも詰め込みすぎた天理教
ボクが2人のミニマリストから学んだことは大きく2つです。
- 大事なモノだけでくらすとモノに感謝しやすくなる
- ライフスタイルが良くも悪くも人の生き方に影響を与える
この2つのことを学んだ結果、ボクの中で繋がったものがあります。
天理教が輝けないのは、たくさんの要素を詰め込みすぎたってことだと思うんです。
やることが多すぎるって悩んでる人たくさんいると思います。
それで何かしら好材料の結果を得られるのなら別ですが、大抵の場合単なる消化試合になってしまっている。
みんなパンクしちゃってるんですよ。
全部大事なことだと思ってやってんだけど、優先順位もよくわかんない状態になってる。
でも、本当に心から大事だと思っていること、人に止められてでもやりたいこと、それをやれればいいはずなんです。みんなの目が甦るはずなんです。
そうなんです、「やらないもの」「やらないこと」を決めるべきなんです。
朝づとめはなぜ必要か
ボクが数年前からずっと抱いている疑問に、
「朝づとめ夕づとめっていつから始まって、いつから教会の必須項目になったの?」
っていうのがあります。
答えは未だに見つけれていないんだけど、最近「こういうことなんじゃないか?」という説が浮上してきました。
以前「Post-religion」をテーマにした記事を書いたんですが、その提唱者である松本紹圭さんが行っている「Temple morning」という活動があります。
これは、朝早くお寺に集まって境内を掃除して、お話会して、お茶を飲むっていう感じの内容で、宗派を越えてお寺が繋がったり、お寺との接点をもちたい人のために開かれた斬新な活動です。
お寺という環境を活かして、より良い朝を迎え、心をリフレッシュさせよう!的な要素もあるんだと思うんです。
おつとめに話を戻します。
おやさまからの言葉がなかったという前提のボクの仮説です。
一日をよりよく送るために、朝をよりより時間にするために、
「そうだ!おつとめしてみよう!」
やってみたらすげーよかった。心が洗われた。これは毎日続けよう!
それを見聞きした人が「オレも!」「ワタシも!」飛びついて一気に広まった。
- 挑戦する人がいて
- 真似する人がいて(真似はいいことですよ)
- 良いことだからみんなやろう!ってなって
- やったほうがいいことになって
- やるべきことになって
- やらないといけないことになって
- 伝統とよばれたり果たすべき務めとよばれるようになる
こんな流れで教会の発展とともに普及し定着したんじゃないかと。
この発想は以外と根拠となる例があるんです。
数年前に提唱を終えた「ハートクリーンキャンペーン」てありますよね。
あれって、いきなり本部が打ち出したものだって思ってるかもしれませんが、実はそうじゃないんです。
ある教区のある支部が始めた活動で、海岸のゴミを拾って綺麗にして、そこでバーベキューしたり海水浴したりしようよ、っていうのが始まりらしいんです。
それが徐々に広まって本部で扱うようになり、全教行事になっていったらしいんです。その後の顛末はみなさんよくしっている通りだと思います。
良いことなのに形骸化してしまうのは「続いてこそ道」という弊害
続けるのが悪いことなはずがありません。
でも江戸時代のお侍さんが現代が必ずしも居心地がよいとはならないと思うんです。
現代社会を豊かに生きるためには、現代社会の生き方にアップデートしなきゃいけないんです。
人間は少しずつアップデートしながら生きることを続けてきているんだと思います。
つまり、続けるためには変わらないといけないっていうことです。
矛盾してますが、でも実際に人間はそうやって続いてきたんだと思います。
何かを続けるためには何かを変えなきゃいけない。
何かを変えるためには何かを捨てなきゃいけない。
天理教はずっと足し算を続けてきたのかもしれません。
足してきたのはどれもこれも良かれとおもって始まったことばかりなはずです。
ハードディスクになんでもかんでも詰め込んで容量オーバーです。
でも以外と容量は大きいから、何が入ってたのか探すのも一苦労。
大切なものがどれとどれだったのか見つけ出すのも重労働。
でもこれからはその作業をしていけばいいと思います。
いらないものはすべて「ゴミ箱」へ。
ゴミ箱へ放り込むのは本当に勇気がいることだと思います。
でも、大丈夫。
捨てた後の爽快感も知ってるはずです。
いさぎよさ。
日本人が大好きなミニマリズム。
ボクはとりあえずこれからその方向でいってみようと思います。
共感してくれる方は応援してくれると嬉しいです。
今日も一日陽気ぐらし!
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