「お坊さん」
この言葉を聞いて、いま、アナタの頭の中にイメージされているものはなんですか?
どうも、コムヨシです。
松本紹圭(まつもとしょうけい)(@shoukeim)という名前を聞いたことがあるでしょうか。
- 東京の浄土宗本願寺派光明寺のお坊さん。
- 超宗派仏教徒のウェブサイト『彼岸寺』を設立。
- お寺カフェ『神谷町オープンテラス』を運営。
- 2013年、世界経済フォーラム(ダボス会議)のYoung Global Leaderに選出。
- 「未来の住職塾」塾長
仏教のことはよくわからないけど、一般の人がイメージする仏教とはどこか違うような活動をされているのかな?
恐らくこれを読んでいるアナタもそんな印象を受けているのではないでしょうか。
そんな松本紹圭さん。
坂本輝男くん(@akiwo57)という天理青年との出会いがきっかけで、天理に来訪されているのです!
しかも講演も行われたっていうじゃないですか。
なに!?松本紹圭の講演!?そんな情報聞いてねーぞ!
まあまあ落ち着いて下さい。今回の講演はボクの個人的な友好関係から実現した企画で、受講者もボクが個人的に声をかけた人がほとんどなんです。
お、おう、そうか、まあそれなら、仕方ねーか…。でも記事かなんかでまとめてくれるんだろうな!
今のところ予定はないですね。
「コムヨシブログでやってみます?」
え?いいの?やるやる!
とうことで、松本紹圭さんの講演「post-religion」を、コムヨシ的な視点で記事にしてみようと思います。
松本紹圭さんってどんな人?
まずは、松本紹圭さんがどんな人物なのかをまとめてみます。
世襲ではなく自ら進んでお坊さんに
- 1979年生まれ。北海道小樽市出身。京都在住。
- 実家はお寺ではなく、祖父の家がお寺。
- 世襲ではなく自ら進んでお坊さんの道を選択。
祖父が住職をされていたため、幼少の頃からお寺に親しんでいたそうですが、お坊さんという生き方を強要されたわけではなく、自らの意思でその道に進んだようです。
なぜお坊さんになったのかというと、
祖父のお寺で、よく葬式をしていたんですが、子どもながらに「死ぬのが恐い」って思ってたんです。
人間、死亡率100%という世界に生まれてきて、自分も死ななきゃいけないし、自分の家族も死んで行く。そういう人生をどうやって生きていったらいいんだろうと考えていました。
「死への恐怖心」が松本さんのベースにあり、どうやって「死」と向き合うかということが人生の大きなテーマになり、大学では哲学を専攻されています。
そんな時、松本さんの人生を大きく左右する大事件が起こります。
もうちょっとお寺って頑張れるんじゃないの?
松本さんの人生が大きく変わった事件。
オウム真理教による「地下鉄サリン事件」。
この事件が起こるまで、松本さんにとって宗教、あるいはお寺は、
- 祖父の姿は死の恐怖を和らげるポジティブな姿に見えていた
- 人の死に立ち会って何かしらの価値を生み出している
- 安心感とか役目を果たしている
- 仏教は死ぬのが恐いという問いへの答えをだしてくれるのだろう
という感情だったといいます。
そんな「宗教」が引き起こした殺戮。
人の心を豊かにするはずの宗教が、どうも逆に働いているように感じたんです。
オウム真理教のある信者のコメントが、さらに松本さんに疑問を投げかけます。
「お寺は風景にすぎなかった。生きることの意味を教えてくれなかった。」
(オウム真理教信者)
小さい頃からお寺に親しんできた松本さんにとって、このコメントはかなりの破壊力を持っていたのかもしれません。
と同時に松本さんは、
お寺が頑張っていればオウムに流れる人もいなかったんじゃないか?
もうちょっとお寺って頑張れるんじゃないの?
仏教がもつ可能性を信じ、大学卒業と同時にお坊さんになることを決意します。
お寺で何かやれないか?
お坊さんになり、お寺での住み込み生活が始まりました。
主にどんなことをされていたかというと、
- 仏教を学ぶ
- 本山での修行
- 葬式、掃除、マネジメント、住職の子どもの送り迎え
こういった暮らしが続く中で、松本さんはこんな疑問を抱きます。
- お寺がせっかく都心にあるのにお参りに来る人が少ない
- そもそもお寺の存在があまり認知されていない
- 「お参りにどうぞ」と言われても「お参り」がよく分からないんじゃないか
そういった疑問から、「お寺で何かやれないか?」という発想になったというのです。
「お寺カフェ」をやろう
お寺で何かやれないか?
- 人がよく行くところってどんなところだろう?
- カフェじゃね?
そんな発想から、お寺のスペースを解放しカフェをオープンしちゃいます。
単純明快な発想ですが、それをすぐに実行にうつせるフットワークの軽さや、住職さんの寛大さが本当に素晴らしいですよね。
職場の人間関係に疲れていた学生時代の友人に「カフェで店長やってみない?」ってお願いしたんです。
その彼が4、5年店長やってるうちにお坊さんになっちゃいましたw
松本さんはこの他にも、
- 超宗派仏教徒のウェブサイト「彼岸寺」の立ち上げ
- 南インドのIndian School of BusinessでMBA取得
- お寺の経営を指南する「未来の住職塾」を開講
- テンプルモーニング(全国各地のお寺でのゲリラ掃除)
など、とにかくお寺の可能性にどんどん挑戦されています。
その活動は仏教間の宗派はおろか、宗教間の垣根さえも越え、「宗教の可能性」を再構築する活動に発展しています。
その具体的な考え方のカタチとして「post-relogion」を提唱されているようです。
ちょっと長くなりましたが、ここからが本題です!w
post-religion|これからの宗教の可能性
その原因が日本のお寺の構造にあるのだと指摘します。
日本のお寺は2階建て
日本の仏教が掲げる看板には、実は2つの宗教が隠れて混在しています。
もちろん物理的な建物の話ではなく、宗教的な構造の話です。
その2つの宗教とは、
- 先祖教(1階):死者を中心とした世界
- 仏道(2階):生きている人のための世界
仏教と言えばボクはすぐさま「葬式」「死」をイメージしますが、仏教というのはそもそも生き方を説く宗教であり、それが「仏道」なのだといいます。
ここで勘違いしてはいけないのは、どちらが正しいとか、間違っているという視点ではないということです。
2階で説く仏道はボランティアに近い感覚なので、1階の先祖教、つまり葬式や法事などを通して経済を回していかなければいけません。
お寺離れが加速する中で、お寺の経営をいかに進めていくかということが喫緊の課題でもあるのでしょう。
しかし「2階建て理論」が抱える問題の本質は別のところにあるようです。
仏道(2階)に興味があっても1階からしか入れない
日本のお寺が抱える問題は、玄関が1階にしかないということなんです。
どういうことか。
例えば、シンプルに仏道を学びたい、生き方を学んでみたいと思ってお寺を訪ねたとします。
思い切ってお寺を訪ねてみたら「あなた、檀家ですか?」と。
家が所属しているお寺じゃないと関係を築きにくいという雰囲気があるようです。お寺にもよるんでしょうけど。
反対に、ほとんどの檀家は
「とにかくお寺は先祖供養の場所、ご先祖様が眠るところ、墓参りに行くところ、葬式や法事をお願いするところだから、住職はとにかくご先祖をちゃんと守っていてくれればそれでいい」という感覚。
それなのに、熱心な住職ほど檀家を2階に連れて行こうとしてしまったり。
こうしたミスマッチを引き起こしている原因が
- 玄関が1階にしかない
- 階段が中にしかない
ということ。(くどいけど物理的な話じゃないからね)
そのための解決策はシンプルに
外に階段をつけて、どちらにも簡単にアクセスできるような環境づくりが必要です。
物理的な構造の話だったら、大工さんに階段を取り付けてもらえばいいけど、この問題は宗教的な観点での話だからとても難しい問題だな〜。
仏教は宗教じゃない|グローバルな視点で仏教を見つめる
松本さんがロンドンで仏教を体験する機会があったそうです。
ロンドン仏教センターと呼ばれるその施設では、多くの市民がヨガやスピリチュアルリーディングに取り組んでいる姿がありました。
この施設は宗教団体ではなく一般の市民団体が運営されているそうで、利用者のほとんどはクリスチャン。
そんな利用者の1人に
あなたは仏教徒になりたいと思いますか?
仏教徒になりたいとは思わないよ。。
仏教は、哲学・思想・生き方・価値観であって
宗教ではないと思うよ。
仏教本来の仏道としての仏教が、ロンドンにはあったと松本さんは語ります。
また、ヤンググローバルリーダー達も、
「私はちっとも宗教を一生懸命やっているわけではないが、スピリチュアリティは大事にしている」
と口を揃えます。
これは欧米だけでなく、アフリカや中東におけるリーダー達も同じ認識だったようです。
post-religionが進んでるのは、日本だけではなく海外も同様で、都市部でより顕著に表れてきているのも特徴だそう。
格差社会による生活環境の多様化が、宗教に対する認識の幅や宗教との接し方を多様化させているのではないでしょうか。
グローバルな視点で仏教を眺めることによって、これからの宗教がとるべき役割のヒントが隠されていたように感じます。
では、宗教者は今後どのような環境づくりを意識するべきなのでしょうか。
宗教の垣根を越え、学びたい人が学びたい場所を自由に行き来できるボーダーレスな環境|次世代宗教者がもつべきスタンス
宗教を英語で「レリジョン」といいますね。レリジョンの語源は
- 堅く結ぶ
- 縛る
という意味があるそうですが、「レリジョン」は明治以降に輸入された概念だそう。
もともと「仏道」としての役割が強かった日本の仏教に、レリジョン的な要素が加わり仏教の組織化が進んだようです。
日本での「お寺離れ」や世界での「宗教離れ」というのは、レリジョンが持つ「縛り」というものからの解放なのかもしれません。
その一方で仏教ブームが巻き起こっているということは、人生に悩みを抱えていたり、よりよい生き方を模索している人が増えているということでしょうか。
都市部でより顕著に表れているというのも納得ですが、必ずしも「縛る」ということが悪ではなく、家同士の繋がりが強い地方では、一定の縛りがあることで上手くいくこともあるのかもしれません。
大事なことは常に自分にとって最適な選択肢が複数あるということかもしれません。
生き方を学びたい人にとって最適な「学べる場所」を提供すること。
宗教の垣根を越えて自由に行き来できるよう、お寺に限らず2階部分はどんどん繋いでいけばいいんです。
宗教が垣根をとっぱらうことによって、「所属」から解放され、利用者は常に自分が望む環境から環境へ自由にアクセスできるようになります。
「信者」という概念が必要なくなるということです。
自分の生き方を、何かしらの概念に当てはめたいという人に対して、天理教から学びたい人、仏教から学びたい人、スピリチュアルな分野から学びたい、医療従事者から学びたい、色んな可能性があっていい。
自分の宗教を大事にしながらも、囲い込むことなくオープンに提供していくことが、今後の宗教に求められるスタンスではないでしょうか。
こういった文化を宗教側が作っていくことが、レリジョン的に「縛られたくない」人へのソリューションになるのではないか。
そしてその文化こそが「post-religion」じゃないかと松本さんは力強く語ってくれました。
post-religionの文化が進んで行く中で、どんな世界になるかというと、現代的なコンテンツで例えるならお寺や教会ごとに「オンラインサロン」ができてくるというイメージ。そんな未来を予感しています。
教会やお寺ごとにオンラインサロンを運営することが「信者の囲い込み」と何が違うかというと、
唯一の所属じゃない
かけもちOK
例えば、
- 松本さんが主催しているテンプルモーニングのサロン
- どこかの教会のサロン
が、「掃除」をテーマにしたイベントを行うことができてしまったり、尚かつそこに参加した人たちが互いのサロンを知るきっかけになり、そのサロンに入会しちゃう。
音楽フェスって目当てのバンド以外のバンドを知る入り口になってたりするけど、それに近い環境を宗教でやっちゃおうよ!って感じなのかな。
post-religion × 天理教2.0
松本紹圭さんによる「post-religion」、いかがでしたか?
ホントに素敵な考えですよね。
恐らくですが「天理教の1階はあれかな?2階は?」 アナタもそんなことを考えながら読みすすめたのではないでしょうか。 それくらい面白い考察ですし、天理教の色々な側面がみえてきたように思います。
色々書きたいことはあるんだけど、ここでは一つだけ。
「天理教は平屋」
ということをボクは感じました。
仏教は長い歴史の中で、いつしか2階建てになっていったけど、天理教には上手く経済を回せるような文化はないし、かといって一般の人に親しまれているような生き方としての文化も未発達でしょう。
平屋の中に、
- 教理
- 先祖崇拝
- 理の親
- 系統・支部・教区
という概念がごちゃごちゃに混在されている状況だということが見えてきました。
これも、どれがダメとか間違ってるとかという議論ではなくて、整理することが大切だと思います。
「理の親」という教理はないにせよ、この概念で助かった人、もしくは好きな人もいるとするならば(ボクは大嫌いだけど)、排除する必要はなくて、上手く整理されていればいいんじゃないかと思うようになりました。
整理されていなくて、教理のように混同されているところに問題があるんだなと感じました。
更にいうと、仏教の2階建ては単に「経済部分」と「ボランティア部分」に分かれているだけでなく、
- 生きること
- 死ぬこと
この相反する2つの概念がセットになっているというのがポイントではないかと感じました。
天理教的にいうと
- 陽気暮らし
- 出直し
という2つの概念の本質をしっかりと掴んだ上で、現代にフィットするような最適化が求められるのかなと思います。
一つだけと言いながら、止まらなくなりそうなので今回はこの辺で!
松本紹圭さん(@shoukeim)是非チェックしてみてください!
今日も一日陽気ぐらし!
参考リンク:
コメント
松本氏の「囲い込むことなくオープンに」の下り、全く同じことを考えていました。おたすけ=信仰の入り口に誘う=信者として登録する段取りを進めていく、ここを通っていこうとするのが、布教師の自動的な流れで、ここにそもそも違和感を感じていました。
買い物をする時、売り手側が信用できる方なのか否かは、単純にこちらをどうにか物を売り付けて利益を落としてくれるだけの人として見ているのか、それとも、買い手であるこちらにとっても最善の選択ができるよう働きかけてくれる人(実はこういう売り手ほど商売っ気が薄い)なのかが大きな基準なのではないかと感じています。
宗教者って、本来上記の後者側であってほしいと思っているのですが、残念ながら多くの場合、そうじゃない。