ども!コムヨシです。
先日妻とこんなやりとりがありました。
おさづけっていつかなくなるのかな?お息の紙みたいに。
ふむふむ。 確かにお息の紙はいまは新たにいただく事はできなくなってるよね。
真柱さんが回復されたらこれまで通りもらえるようになるんだろうけど、この先も今までのようなスタイルでいくんでしょうか。
予めボクの見解を述べておきますが、おさづけも別席もシステムを改めるべきだと思います。
簡単にもらえすぎです。
今回はその辺のことをまとめてみようと思います。
お話会の後に茶話会をするんだけど、あるご婦人が
「娘帰宅が遅い時間帯になったり、暗くなるのが早い時期はすごく心配するんだけど、伊勢谷さんがカンカンやってくれてるお陰で安心できるんですよ」
っていうお話を聞かせてくれたんです。
今はもう戴けない「お息の紙」
「お息の紙」というのをご存知でしょうか。
初めて聞く方のために簡単に説明しておいきましょう。
教祖ご在世中および明治20年末頃までに、熱心に信心していた人々が戴かれた「おさづけ」には、「息のさづけ」「かんろだいのさづけ」「水のさづけ」「じきもつのさづけ」「肥のさづけ」等の種類がありました。これが今日の「おさづけ」の初まりであります。
「息のさづけ」は、このおさづけを戴いた方が息をかけた紙に効能の理を授けられたもので、かつては本部からお息紙として出されていたのです。
引用元:天の言葉
とあります。
昔はおさづけと言っても色々な種類があったらしく、その中に「息のさづけ」というおさづけを戴かれた方がいました。
息のさづけを戴かれた方が、紙(特別な和紙)に息をかけるのですが、その「息のかかった紙」のことを「お息の紙」と呼んでいたようです。
息のさづけは渡されなくなり、それに伴ってお息の紙も下付されることはなくなりました。
(ちなみにうちの実家には大量のお息の紙が残っています。前会長であるボクのおじいちゃんが大量にストックしておいたようです。)
今ではおさづけと言えば「てをどりのさづけ」の一種類しか存在しません。
ボクがいただいたおさづけもこれです。
というか今生きている人が戴いているおさづけはすべて「てをどりのさづけ」で間違いないでしょう。
エンタメ化しているおさづけ
最近エンタメ化という言葉をよく耳にします。
例えば、
「仕事をエンタメ化してストレスのない環境を作ろう!」
「断食をエンタメ化してみんなでワイワイ楽しもう!」
みたいに、窮屈な状況やストレスが多い環境を楽しい雰囲気に入れ替えるという雰囲気を感じています。間違ってるかもしれませんが、ボクがそんな風に感じています。
これはすごくポジティブな状況作りだと思っていて、天理教も組織や教会の雰囲気作りとしてどんどん取り入れていくべきだと思っています。
ただですよ。
ボクの完全なる個人的な見解ですが、天理教が唯一エンタメ化している分野があるとすると、ボクは、ボクはですよ。ボクの個人的な見解はですよ。
おさづけがエンタメ化してるんじゃないかと思うんです。
しかもネガティブな状況として。
理由 ⑴ 簡単にもらえすぎる
おさづけってもともと、簡単には戴けなかったはずなんです。あまりちゃんとした裏付けはできませんが、教祖伝とか読んでも当時の選ばれた崇高な信仰者しか戴いていないと思うんです。崇高だったかどうかは知りませんけど。
後に、おさづけを戴くための制度が出来て、その制度を「別席」と呼ぶようになった当時も、別席を聞くための試験がありました。
本当に欲しいと思う人だけがたどり着けるような制度だったと思うんです。ま、当時がどんな感じだったのか知りませんけど。
それが、詳しい年代はわからないけど、別席を聞くための「試験」が「誓い」に変わり、願い出れば誰でも聞ける状況になりました。
天理の高校生はおさづけを戴く事が必修となっていて、卒業できるかどうかにもかかわっています。
ボクも高校時代にもらいました。
どれだけ「理は同じ」と言われても、「何があってもどうしてもおさづけを戴きたい」と願い出た人と、「高校時代に必修だから仕方なく」という人との差がないと言う方が無理があります。
理が同じとか理が違うとか、そんな言葉使いたくないけど、それこそ「理が違う」んじゃねーの?って感じるのはボクだけでしょうか。
理由 ⑵ 教会勢力のバロメーターになっている
これが一番の問題かもしれません。
別席者をどれだけ作れたか、おさづけ拝戴者をどれだけ出せたか。これが教会の勢力を計るためのバロメーターになってしまってると思うんです。
つまり、多くだせれば「あの教会は勢いがある」「しっかり勤めている」「にをいがけおたすけが盛んだ」という評価を得る事が出来ます。
それ自体は決して悪い事ではないし、むしろ素晴らしいことです。
問題なのはその評価を得る事が目的になってしまっているきらいがあるということです。ないとは言わせませんよ。実際ボクもそうでしたし。
更に問題なのは、本人が決して望んでいるわけでもないのに、教会の都合で「これは尊いものだから」とか「これが恩返しなんだ」とかもっともらしい言葉で丸め込んで別席に連れて行ったり、おさづけを拝戴させていることでしょう。
おさづけ拝戴者を増やしたいと思う事じたいは本当に尊いんです。
世界の平和を願い、病み苦しむ人に救いの手を差し伸べたい。そんな人を1人でも多く増やしていきたい。そう思うのはむしろ当然のことです。
でも今の流れは決してそうではないような気がします。
とにかく数を増やすが目的になってしまっている感じです。
「本人が今後人だすけをしようがしまいが関係ない。とにかくこの人を用木にするんだ!」
この雰囲気が全教的に普通になってしまっているのは、
「みんなで数を競おうよ」
「数が増えれば天理教も賑やかになるじゃん」
「結果世界が平和になるんだよ」
こんな感じにエンタメ化しちゃってるのが原因なんじゃないかなって思います。
おさづけは今後必要か
不必要ではないと思います。
あるにこしたことはないんでしょう。
でも、お息の紙はなくなりました。お息の紙は傷口や患部に直接貼付けて平癒を願うものだそうです。
医者や薬が高価だった当時は画期的な存在だったでしょう。
時代の流れやテクノロジーの進化によっておさづけのあり方も変わって行くのかもしれません。
おさづけが今後拝戴できるハードルが上がり、用木が減少した時、天理教やおさづけの価値は今とは比べ物にならないくらい跳ね上がるでしょう。
ボクはそうあってほしいし、そうなるべきだと思います。
教会もそう。
おさづけ拝戴が難しい時代になれば、
「入手困難なおさづけを拝戴された方が会長を務めている教会」というレア感が生まれます。
レアだからというわけじゃないけど、そういう人が教会長をやるべきだと思うんです。
そういうレアな人たちばかりが集う「教会長講習会」なんて想像するだけで神々しさを感じます。
そんな時代になってほしいなと思います。
いま、おさづけを巡る状況が状況なだけに、こんな時だからこそ真剣に考える必要があるんじゃないのかなって思いました。
今日も一日陽気ぐらし!
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