【天理教】社会との接点をもち社会貢献できる教会と信仰を育みたい

考え方

どうも!コムヨシです。

「日本のお寺は二階建て」という興味深いお話を聞きました。

その話を参考にしつつ、天理教の教会はどんなことを意識していくべきなのかを考えて見ました。

スポンサーリンク

日本の仏教は「仏教×先祖崇拝」の二階建て構造

ここでいう「二階建て」というのは建物の構造の話ではありません。

日本の仏教は、いわゆる大陸から伝わった仏教に、先祖崇拝という宗教概念が混ざりあって存在しているというのです。

仏教と聞くと「葬式」というイメージがありますが、そもそも仏教はそういったものではないのだそう。

江戸時代に成立した檀家制度がその感覚を強くしたようですが、それによって「お寺側の仏教」と「檀家側の仏教」に大きな隔たりが出来てしまったようなのです。

例えば葬式のお礼として支払う「お布施」が分かりやすいです。

そもそもお布施っていうのは

日本で「お布施」というと、「葬儀や法要のときにお坊さんにお渡しする謝礼」を意味することが多いのですが、本来はもっと広く大きく「与えること」を意味します。

彼岸寺〝お布施とは〟より引用

 

一方で、葬式をしてもらった家族側からすると、「故人を供養してもらった」という行為への対価そして支払う謝礼という感覚が強いでしょう。

じゃあ二階建てとはどういうことかというと、

お布施を持ってきた家族は1階で「先祖崇拝」としてお金をもってきたのに対して、お坊さんは2階の「仏教」としてお金を受け取っているという関係になります。

ボク自身聞いたばかりの話なのできちんと説明できないのですが、おおよそ言いたいことは理解していただけたかと思います。

今回ボクが考えたいのは仏教のことではなく、

  • 天理教の教会における「階の構造」はどうなっているのか。
  • 各階の中身は一体何か

ということを考えさせられました。

教会と社会との接点

仮に教会の二階が「おつとめ勤める」ということだとしましょう。

最近は子ども食堂を始めとした、地域との関わりをもった取り組みがたくさん生まれて来ていると思います。

これを一階部分と捉えることも出来るかもしれませんが、実はこれは教会の「庭先」に入っただけというとらえ方も出来ます。

バーベキューをやったりお楽しみ行事を開催して、教会に人を招くことは出来ます。

形の上では神殿の中に入ったという事実があったとしても、精神的には「庭先どまり」

というケースが多いのではないでしょうか。

庭先からどうやって中に入ってもらうか。そこで多くの教会がつまずいているのではないかと思います。ウチもそうです。

社会との接点をもったその先

そもそもなぜ教会に来てもらいたいのでしょうか。

教会に来るとどんなメリットがあるのでしょうか。

おつとめをつとめて欲しいからでしょうか。

たすかって欲しいからでしょうか。

たすかるとはどんな状態でしょうか。

たすけて欲しいわけでもなく、おつとめをつとめたい訳ではない人が教会に行くメリットは一体なんでしょうか。

これは本部では教えてくれません。修養科にいっても講習にいっても学ぶことは出来ません。

教会を存続させていく上で一番大切なことなのに、誰も知らないし誰も教えてくれません。

何故でしょうか。

答えがないからです。そして恐らくまだ誰もやったことがないからです。

なぜ教会に来て欲しいのかを考える

天理教においておつとめを勤めることは、最も重要な行為とされています。

しかしそれが何故なのか分かりません。

「教祖が仰った」「教祖が命を削って伝えられたものだ」

という答えが正解になっています。

教祖を完全に信じきっている信仰者ならともかく、大事だということの理由が曖昧なまま「大事なことだから」という理由だけで意味もわからずおつとめをつとめるのはやはり苦痛です。

朝夕のおつとめはいつ頃成立して、なぜ今のようなスタイルになっているのか、誰に聞いても分かりません。

なぜどのようにして成立したのかわからないことを、私たちは「最も大切なこと」として当たり前のように勤めています。

それはそれで崇高な行為ですが、やはり説得力に欠けます。

おつとめがなぜ大切なのか、なぜ勤めるべきなのか、ここに明確な意味を見いださなければやはり「庭先」から「建物」に入ってもらうのはとても難しいです。

社会との接点をもち社会貢献できる教会や信仰

教会ですべてを完結させるという発想を捨てることがまずは大事ではないかと思います。

おつとめを勤めるということではなく、教会につながるということでもなく、おぢばへ帰るということでもなく、教会を媒体として知り合った、繋がりあえたお互いが目指す姿が世の中を更によくするための活動になればいいのだと思うんです。

その繋がりやコミュニティをより強く結束させるために、おつとめを勤めるという流れになるのであればとても素晴らしいと思います。

つまり、教会が社会へ向けて貢献しようとしている取り組みに共感を得てもらい、共感してくれた人の集まりをコミュニティとして発展させることが、教会の役割になっていくのが最善だと思います。

誰か1人の思想や意思を、教会という媒体を通して、より大きく確実性のある具体策として昇華させ、実行に移していく。

共感してもらうために布教をするということではありません。

共感してもらうためには、まずは自分がどんな人になりたくて、どんな社会にしたくて、どうやって世の中を良くして行きたいかという発信活動や実際に行動に起こして行くということが大事です。

中身が宗教的要素を含んでいるかどうかは全く関係ないです。

とにかく「素晴らしい活動だ」と思ってもらえるかどうかだと思います。

先ずは自分が変わるということですね。

やっちゃいましょう!

今日も一日陽気暮らし!

コメント

タイトルとURLをコピーしました