【天理教】教会のためでも信者のためでもなく社会のために布教しよう

考え方

ども!コムヨシです。

天理教はなぜ布教するのか。

コムヨシはなぜ布教しなくなったのか。

その辺を考えてみようと思います。

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布教ってそもそもなんだっけ?

布教という言葉をネットで調べてみたら、次のように書かれていました。

宗教を広めること。

コトバンクより

以外にもwikipedia先生には「布教」という単語は掲載されていませんでした。

その代わり「宣教」という単語はwikipedia先生ご存知のようでした。引用します。

  • ある思想や宗教を広める活動特にキリスト教に於ける活動を指す。同意語として「伝道」(主にプロテスタント等で用いられる用語)や「布教」が有る。
    • 福音宣教
    • 宣教師
  • 1869年(明治2年)明治政府によって祭祀、祝部、神戸、諸陵等と並んで置かれた神祇官の職位の一つで神道思想の普及を行うもの。

wikipediaより引用

布教にしろ宣教にしろ、宗教やその教えを広める行為だということがわかりました。

仏教が布教をしない理由

布教活動と聞くと、一軒一軒家を回る「戸別訪問」をイメージする人が多いのではないでしょうか。

天理教は神名流しや路傍講演といった布教形態がありますが、他の宗教はほとんどの場合「訪問」がメインではないでしょうか。(ボクの主観です)

エホバの証人さんや立証校正会さんなどが訪問活動を頻繁にされているのはよく聞きます。

でもいわゆる「お寺さん」が家を訪ねてきたことってありませんよね。

これには明確な理由があるみたいなんです。

お寺を守る檀家制度

江戸時代にキリスト教禁止令が出されるのと並行して、一般の人は必ず地域のお寺に所属しなければならないきまりになりました。

これが檀家制度の始まりと言われています。かなりザックリですが。

いずれにせよ、この檀家制度によってお寺は檀家(民衆)と強制的に主従関係を結ぶことになりました。

葬祭供養の一切をそのお寺に一任しなければならないので、お寺は安定した収入を得ることができるようになりました。

さらにwikipedia先生によると、

寺院側は、常時の参詣や、年忌・命日法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山上納金などの名目で経済的負担を檀家に強いた。

今日における彼岸の墓参りやお盆の法事は、檀家制度によって確立したといえる。

wikipediaより引用

とあります。それくらいお寺の権力は強くなりました。

つまり、お寺は布教をする必要がなくなったんですね。布教をしなくても幕府や国家が保証してくれたんですね。

いま、全国的にお寺が危機的状況にあるらしいですが、こうした檀家制度に頼り切った状態から抜け出せずにいたことが原因なのかもしれません。

教会内容充実のために布教していた

少しボクの話をすると、

教会長に就任した当初、ボクは布教することしか考えていませんでした。

事情教会を復興することがボクの使命だと思っていたからです。

教会を復興するためには布教以外に方法はないと思っていました。

確かに、教会を復興するためには布教が最善で最良の方法だと思います。

ですが、ボクたちの使命は教会を発展させることなのでしょうか。

教会を賑やかにすること、おつとめを一人一役で勤めることが天理教のゴールだとしたら、教会を発展させるということが天理教の使命かもしれません。

少なくともボクはそうは思えなくなりました。

天理教の目的は世界一れつ陽気ぐらしだと教わりました。

そこに感銘を受け、ボクも何か世界たすけの一助になりたいと心を躍らせ、志を高く挙げたはずでした。

しかし自分がやっていることは教会を発展させること、つまり教会内容充実が目的になってしまっていたんです。

教会を発展させることが陽気ぐらしへの道だと言われると、確かにそうかもしれない、と思う。でもなんだか違う。モヤモヤする。

その中でボクが出した答えは、

「自分にしかできない陽気ぐらしをする」

ということでした。

この考えに至ってから、ボクは積極的に布教することをやめました。

ボクがやりたいのは布教ではない。

自分が最高の人生を体験し、そのあり方や喜びをたくさんの人と共有することだと思いました。そして少しでも世の中の役に立てれば最高だよね、っていう感じです。

楽しくないと感じている布教活動を続けて、憂鬱な気分になっているくらいなら、いっそのことやめて自分らしく生きる道を選んだ方が神様は喜んでくれるはずです。

自分の使命に生きる=陽気ぐらし

自分らしく生きるっていうのは自分勝手っていう意味じゃないですよ。

自分が神様から与えられた使命を全うするということです。

使命は人それぞれちがいます。

それを見つけることも重要なことです。それさえ見つかればあとはやるだけです。

ボクはそれを見つけるお手伝いもしたい。

もしかしたらそれがボクの使命かもしれない。

ボクが「自分の陽気ぐらし」という表現をしたのは、要するに自分の使命「天命」を知るということです。

教会は神様のお家という表現をしますが、そうはいっても会長さんや会長家族の影響は多分にあるものです。

おつとめをする場所、祈る場所、それはわかるけど実は教会じゃなくてもそれはできるんです。

いま教会に行く理由やメリットがどんどん失われていっています。

これは信者さんのではないし、会長さんのせいでもありません。

時代がそうしているのです。

教会を必要とした時代と、現代とではまるっきり人々のニーズは違います。

仮にニーズが変わっていないとしても、関わり方は大きく変化しています。

もしも、教会に人をたくさん呼びたいと感じているのであば、関わり方を変えなければいけません。

あなたが提供したい価値と、それを享受したいと思う人との需要と供給のバランスがとれれば必ず人は集まります。

問題はどんな価値を提供するかです。

どんな教会にするべきか、どんな教会長であるべきかという議論ではありません。

あなたがどんな人になりたいのか。世の中を良くするためにどんな社会貢献をしたいのか。

ということです。

ボクはこれだけだと思っています。

この価値を決めずに、おつとめをしましょうとか、布教しましょうと言っても心がついていかないんです。

自分の使命を見つけるためにはアウトプットが一番

焦ることはありません。

ゆっくりとこれまでの自分を振り返り、あるいはノートに書き出してみたり、snsやブログなどで発信活動をするのもいいでしょう。

まずは自分とじっくり向き合ってみて下さい。

答えはアナタの中にしかありません。

答えにたどり着く過程も伏せ込みです。大きく羽ばたくために必要な時間です。

アナタの天命に気づけたとき、その瞬間こそアナタの陽気ぐらしが動き出す時なのです。

そして教会も新たな使命を授けられ、より一層輝きを増すことでしょう。

教会を変えるのではなく、アナタが変わるのです。アナタが変われば教会は劇的に変わります。

今日も一日陽気暮らし!

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