どうも、コムヨシです。
天理教2.0の信仰スタイルを発信し、天理教1.0で消耗している方の一助となればという思いでコンサルタントをしています。
このスタイルや考え方の人を増やしたいわけではなくて、既存のスタイルしか選択肢がないと自己暗示をかけ、自分で自分の首を絞めて苦しんでいる(数年前までのボクのような)人を、その地獄から解放してあげたいという感じです。
そんなボクが今度「天理教2.0セミナー」をすることになったので、原稿作成がてら、セミナーで話す内容を記事にまとめてみようと思います。
天理教が低迷している理由
天理教が低迷しているといわれて久しい訳ですが、本質的なことを言うと、低迷しようが盛り上がろうが、困るのは教会や本部だけで、天理教信者という単体レベルでは誰も困りません。困るのは組織だけなんです。
でも、その組織に属しているボクとしては、人ごとじゃないし、困ってる人がたくさんいるからなんとかしたい。教会はなくなってもいいと思うけど、今すぐになくせるシステムじゃないから、それまではなんとか維持しなきゃいけない。
そのためには、なぜ天理教が低迷しているのかを考える必要があったので、ボクなりに考えて出した答えがこれ。
- 布教力の低迷
- 組織の形骸化
細かく分けるともっと色々あると思うんだけど、大きく分けたら多分この二つに行きつくんじゃないですかね。
実はこの原因は、今更ボクが言わなくてもみんなわかってることなんですよ。
色んな人がアイデアをだして、改善策を模索しているみたいなんですけど、どれも上手くいかない。むしろ低迷は加速するばかり。
改善策が上手く結果に繋がらないのは、課題の本質が見えていないからなんです。
つまり、なぜ「布教力が低迷」しているのか「組織が形骸化」しているかがわかっていないからなんですね。
先日、ある有名な会長さんとお話をする機会があったんですが、その会長さんは天理教の低迷への解決策として次のような話をされていました。
今の天理教が低迷してるのは、おたすけ出来る会長が減ったから。
布教できない、おたすけできない人が簡単に会長になれるシステムに問題がある。
だから、会長になる人は、必ず3年間布教に出て、教区長から「会長就任オッケーのハンコをもらえないと会長になれない」というシステムを作れば良い。
この考え方が悪いとは思わないけど、それをやったら誰も会長やらなくなるし、教会は全部事情教会になる。
その中で生き残った教会は教会としての価値が生まれるから、質の高い教会長を残すという目的ならそれでいいと思う。でもそれだと、低迷の加速は止められないし、V字逆転なんて一生できない。
ボクが認識している、低迷の原因はこうだ。
布教やにをいがけ、おたすけがキライなわけではなく、自分がワクワクするスタイルがない
ということなんです。
つまり、「この方法で行きたい!」と思えるような選択肢がないということ。
布教力が低迷しているっていうことは、質が低迷してるんじゃなくて、単純に布教に携わる人が減ってるっていうことなんです。
なぜ減ってるかっていうと、やりたいと思わないからなんです。
世の中には困っている人がたくさんいて、天理教の教えを待っている人がたくさんいるっていうのもわかってるんです、みんな。
信仰の質が下がってるって思う人もいるかもしれないけど、「ない命を救われた」とか「奇跡を目の当たりにした」とか、そんな壮絶な経験をしていないのに、天理教の信仰を続けている今の世代の方がはるかに信仰の質は高い。ぶっちぎりで。
それでも、にをいがけが出来ないのは、感謝の心が足りないからではなく、信仰心がないからでもなく、そう
選択肢がないから。
これだけなんです。
これからの天理教がすべきことは、選択肢を増やしていくことなんです。
「どうやって選択肢を増やすの?」
はい、お答えしましょう。
自分がワクワクするスタイルをトンがらせる
布教スタイルの選択肢を増やす前に、考えなければならないことがあります。
それは、
アナタ自身がワクワクする信仰スタイルを見つけ、そのスタイルをトンがらせるということです。
どういうことかというと、
天理教1.0という既存の布教スタイルや信仰スタイルにワクワクせず、やりたいと思わないわけですから、自分がワクワクすることを信仰という槍で突き刺してしまえばいいわけです。
つまり、自分の好きなことや趣味、仕事などをベースとしたワクワクに天理教をぶっ刺すということです。
ボクだったら、Tシャツ作りやライブ参戦が趣味だったり、スペイン語を日常会話程度なら(ほとんど忘れたけど)いけたり、今は椎茸栽培の事業開始に向けて実践的な勉強をしたりしています。
こういう、人からやめろと言われてもついついやりたくなってしまうような、ワクワクすることが、布教やおたすけに繋がったら最高だと思いませんか?
「そうだと思うけど、そんなこと出来たら誰も苦労しない」
確かにその通りです。
でも、ボクはそこにしか天理教の未来を見いだせないし、むしろ自分のやりたいことを通してでしかやりたくない。
なので、ボクはこの自分の好きなことや得意なことを更に突き詰めて、つまり「トンがらせて」自分だけのポジションを築きたいんです。
例えば、ボクがTシャツ作りをしながら、布教やおたすけが出来るようになってくると、そのボクのスタイルに興味を持つ人が必ず出てくるんです。もっというと憧れすらもつ人も出てくるんです。(自意識過剰ですみませんが)
まあ、興味や憧れの感情を抱かなかったとしても、一つの選択肢にはなるんです。ボクが好きなことをやっているだけで、誰かの選択しになるんです。
もうお分かりですね。そうなんです。
選択肢を増やすには、先ずはアナタが自分の好きなことや得意なことをトンガらせることなんです。
それが誰かの目に止まれば、勝手にそれが選択肢になっちゃうんです。
熱狂的なファンコミュニティー
多くの選択肢が更に多くの選択肢を生み、どんどん良質な選択肢が溢れかえる状態が必ずやってきます。
情報過多と言われる、現代において、インターネット上に良質なコンテンツや選択肢があるということは常識になっています。
そこで重要になってくるのは、溢れた情報の中から自分に最適な情報を得るにはどうするか、ということです。
つまり、「誰から情報を得るか」ということが重要になってきます。
例えば、「ブログやってみたいな〜」って思ったとします。ググりますよね。色んな人がブログ開設にあたっての記事を書いています。
アナタはどんな基準でその記事を選んでいますか?
無意識のうちに、その人の言葉遣いだったり、サイト内の別の記事を読んでみたりするでしょう。あるいはプロフィールを見るかもしれません。いずれにせよそれは、その人の人柄で選んでるっていうことなんです。記事内容が良いのは前提ですから。
天理教の信仰スタイルや布教スタイルの選択方法にも、そういった現象が起こってくるべきなんです。そして、情報革命が起こった現代ではそれが可能になっています。
これまでは、教会系統から流れてくる情報や、教区支部からの情報、あるいはお道の書籍、天理時報ぐらいしか、情報を得る方法がありませんでした。しかも受け取ることしか出来なかったんです。
でも今は、スマホ一つで色んな情報が瞬時に手に入る時代だし、瞬時に自分の情報を発信することが可能になり、今まで会ったこともない、名前もしらない、どこに住んでいるかもわからない人の信仰体験談や、愚痴不足、ためになる話しなど、簡単に手に入るようになりました。
SNS等で、見ず知らずの信仰者の投稿に勇気づけられたり、勇みをもらったり、気持ちが楽になったっていう経験は一度や二度はあるはずです。
あなたの何気ない発信がにをいがけになり、おたすけに繋がってるんですね。
これまでは、大教会や上級、教区支部でしか得られなかった情報が、「名前も分からないけど信頼出来る信仰者」から得られるようになりました。
信頼という絆で、アナタと繋がろうとするファンが生まれてきます。信頼が信頼を呼び、ファンが増えるとそこには自然発生的にコミュニティーが形成されるんじゃないかとボクはイメージしています。
自分がトンがればトンがるほど、ファンは熱狂的になり、熱狂的なコミュニティーが作られるはずです。そのコミュニティーの中でのアナタの存在は正に「最強」です。
すべての出発点は「常識のアップデート」から
ここまで、幻想的な夢想的なボクの展望を綴ってきましたが、これを実現するためには、まずは「常識のアップデート」をしなければ何も始まりません。
あまりにも現実社会から乖離しているかのような、天理教1.0のスタイルがおかしいと思いながら、それを続けているんでしょうか。なぜ、悩み苦しみながら、その現状から抜け出せないのでしょうか。
答えは簡単。それをすることが天理教を信仰している証だと思い込んでいるからなんです。そうです、思い込みです。
ボクがそうであったように、既存のスタイルに我慢し、好きになる努力をし、疑問を持たない努力をした挙げ句にまっていた世界は、現実逃避でした。
なぜ我慢してしまうかについては、こちらの記事が参考になると思います。
自分のワクワクにブレーキをかけてしまう状態が、我慢なわけですが、それを解放するには、ものごとを自分で考える力が必須です。そして常に自問することです「これで良いのか」と。
これを一番手っ取り早くできる方法が、ブログです。
ボクがブログを書きはじめるまで、どんな状態だったかというと、疑問はもってましたが、不足不満を口にするだけで、結局なにも出来ずにいました。
それが、ブログを書くことによって、
- 何に対して不満なのか
- 何がどうなって欲しいのか
- 自分は何をやりたいのか
- どんな人を増やしたいのか
ということが、少しずつ整理されていきました。
整理されてくると、自分の考えに一貫性が出てくるので、選択が迫られた時でも悩む時間が減りました。自分の軸が出来たって言うことですね。
自分の軸が出来てくると、軸と比較して物事を計れるようになります。つまり、自分で考えるということが勝手に出来るようになります。
ブログを書き溜めるだけで、簡単に常識のアップデートが出来るようになります。しかも、その内容が、誰かの共感を生めば、自ずと検索上位に表示され、更に多くの人の目にとまるようになります。
良いコンテンツを生み、誰かの選択肢となることにも繋がると言う訳です。
常識のアップデートが自分の常識になれば、あなたの信仰は天理教2.0になっているはずです。
それでもやっぱり一人では出来ないアナタへ
「天理教2.0でトンがる 〜ギア2ンド〜 」
という、オンラインサロンを企画しています。
まだ申請もしていないので、なんとも言えませんが、今回のブログでまとめたような内容を、共に実践する仲間のコミュニティーの場を提供したいと考えています。
ファンがファンを呼び、コミュニティーがコミュニティーを呼ぶ。
アナタの天理教2.0がどんどん加速し、世界がどんどん輝いていくためのサロンです。
ボクもこれからどんな世界が広がっていくのか、ワクワクがとまりません。
アナタも一緒にワクワクしませんか?
今日も一日陽気ぐらし!
コメント
考え方が時代遅れ。
天理教は時代遅れの時代遅れ。
三周回遅れぐらいしてることに気付けよ。
根本的な解決よりも、まずは身の回りから。
結果は後から付いてくる。
せやな、先案じはいかんからな。
結果よりも過程に重きを置くのが信仰やな!
あんたは信仰というより自由な思い込みやな
と思いました
辞めて普通に仕事しろ
コムヨシさんもすでにお気づきとは思いますが、
信仰を
教会ベース→個人ベース
に移行するには、
「教会所属の自由化」
が手っ取り早いと思います。
個人はいつでも自由に所属教会を異動できる。
考えてみれば、当たり前の話かもしれません。
このシンプルなルール変更だけで、
新陳代謝が生まれ、人の集まる教会は残り、集まらない教会は消えます。