どうも、コムヨシです。
「教会ベースの信仰スタイルに違和感あるんだけど、具体的にはどうしたらいいの?」
そんな疑問をもってから一年程になりますが、ブログを書き続けてきたおかげで、ぼんやりですがイメージ出来てきました。
教会長としての理想のスタイルは、以前こんな記事を書いたので合わせて読んでみて下さい。
先日、ホリエモンの著書「すべての教育は「洗脳」である〜21世紀の脱・学校論〜」を読みました。
著書の「学校」を「教会」に置き換えて読んでみたら、教会制度が抱えている問題と、天理教がとるべき行動が完全に見えてしまいました。
この記事では、教会制度がここまで発展してしまった原因と、これから信仰者がとるべき行動をまとめてみようと思います。
教会ベースを脱する
教会ベースの信仰から脱するためには、まずは、自分の信仰スタイルが教会ベースになっていることを自覚する必要があります。
自覚する方法として、「なぜ天理教は低迷しているのか?」
ということを自問してみることが一番だと思います。
たどり着く答えとして考えられるものは、
- 布教力が低下している
- 子供や孫に信仰が伝わっていない
と、考えつく人が多いと思います。ボクも以前まではそう感じていました。
確かに、それも原因であることに間違いはありません。
この質問には落とし穴があって、大事なのは実は答えではありません。
よく考えてみて下さい。
天理教が低迷することで、誰かが困るのでしょうか。
もちろん、低迷しているよりも、盛り上がっている方が携わっている者としては嬉しいですよね。
でも、そんなに頭を抱えるような問題なのでしょうか。
ボクの個人的な推察ですが、天理教が低迷することによって困っているのは、教会長や天理教の上層部だけだと思うんです。
一般的な信者さんは、天理教が低迷しようが盛り上がろうが、さほど生活には影響はないはずです。
騒いでいるのは、そう、
お供えで生活している側だけなんです。
つまり、天理教の低迷=信者数の減少=お供えの減少=生活切迫
ということになります。だから、
布教せよ!
信者を増やせ!
お供えを増やせ!
ということになるんです。これは間違いありません。実際ボクもそうだったので信憑性はありますww(お恥ずかしい限りです)
布教するのも良いことだし、信者が増えるのも良いことだし、お供えをするのも良いことです。本人がやりたいと思ってやっていることなら。
あなたはどうですか?
なぜ教会ベースになってしまったのか
現代人にとってデメリットこそあれ、メリットが少ない教会制度が今なお重要視されているのはなぜなんでしょう。
教会ベースという信仰のあり方は、決して悪いことではないと思うんです。
問題なのは、現代人の生活スタイルにコミットしていないのに、なぜ100年も続いてきたのかということなんです。
今回読んだ「すべての教育は「洗脳」である」の中にヒントがたくさんあったので、少し引用しながら、その原因を探ってみたいと思います。
原因① 我慢強い人が褒められる日本人
…日本には、僕のような「我慢しない人」を軽蔑する文化がある。
そして、「我慢強い人」を褒め称える文化がある。
どんなに不満があっても、どんな理不尽な状況に置かれても、それを耐え忍ぶことを美徳とし、耐えしのいだ先にこそ「成功」が待っているかのような言説がまかり通っている。ほとんどマインドコントロールに近い不条理なこの呪いが、この国全体を覆っている。
その原因は何か?
「学校」なのである。
引用元:すべての教育は「洗脳である」〜21世紀の脱・学校論〜
「好きなことを諦めなければならない」という考え自体は確かに、信仰をするようになってからのことですが、そこに至るまでの思考回路は、信仰ではなく学校生活で培われたものだったんですね。
自分のやりたいことにブレーキをかけてしまうのは、自分の性格でもなければ血液型によるものでもなく、我慢することを美徳だと洗脳されたことに起因しているのです。
受験、就職、キャリアステップ、結婚、出産、子育て、定年退職、老後。
学業だけでなく、ありとあらゆる「いざという時」に備えて今は我慢しなさい、という大人の理屈に従った結果、自分の「やりたい」にブレーキをかけるのが習慣づいてしまったのです。
この習慣によって主体性は奪われ、目上の人に従順にしていることが「お利口さん」だという潜在意識が出来上がりました。
原因② 学校によって「学力」が求められ「お利口さん」であることが重要視された
ボクが恐ろしいなと感じたのは、このブレーキの習慣は学生時代だけのことではなく、潜在意識になってしまっているから、就職してからもこの習慣が続いてしまうと言うことなんです。
1995年に地下鉄サリン事件を引き起こたオウム真理教。逮捕された人の中に、高学歴の若者が多かったことが話題になりました。
…「高学歴の若者たち」がカルト宗教に洗脳されたことを、特に不思議とは思わなかった。僕の眼に映る彼ら学校教育のエリートは、「洗脳されることに慣れた人たち」だった。もともと洗脳に慣れた人たちが、信仰先を変えただけ。そんな風に感じたのである。
引用元:すべての教育は「洗脳である」〜21世紀の脱・学校論〜
学校というシステムの中で、学生の善し悪しを計測するための基準が「学力」だったり、与えられた環境の中で我慢し、上の位を目指すことだったので、
「先生の言うことをよく聞いて、我慢強く勉強できるヒトが素晴らしい」
という価値観が無意識のうちに子どもに刷り込まれていたのです。
つまり、いかに目上の人に対して受動的で従順的でいられるか、ということが大事なので、受動的で従順な人であればある程「お利口さん」であり、「洗脳されることに慣れた人たち」だということです。
「洗脳に慣れた人たち」というのは、学校や会社のシステム(受動的・従順)に依存してしまっている人たちであり、むしろそのシステムを欲していたとさえホリエモンは主張します。
教会系統というシステムでも重宝しやすい人材が、学校教育の中で自然と育まれていたっていうことですね。
原因③ 常識への信仰
…「どうして学校に行かなきゃいけないの?」
この質問に大人たちは、「学問を修めるため」「世の中で必要な知識を学ぶため」などと答える。
しかしあなたは、社会に出て以降、学校で学んだ知識のうちどのくらいが「役に立った」と感じただろうか? 5割や6割、下手をすると7割以上の知識が「役に立たなかった」のではないだろうか。
それも当然だ。学校が教えることの9割は「知識」ではないからだ。学校にとっては知識など、添え物程度の意味しかない。学校はただ、ゆがみきった「常識」を植え付けるために存在する機関なのである。
ここで簡単に「知識」と「常識」の違いについて触れておこう。
知識とは、原則として「ファクト」を取り扱うものだ。主観の一切入り込まない事実(ファクト)にもとづく知。それが知識である。
一方、常識とは「解釈」である。主観の入りまくった、その時代、その国、その組織の中でしか通用しない決まりごと。それが常識である。日本でよく見られる儒教的規範などは、まさに「常識」の最たる例だ。
引用元:すべての教育は「洗脳である」〜21世紀の脱・学校論〜
常識のアップデートがいかに重要かということが、この文を読むだけで分かる気がします。
原因①〜③をまとめてみると、教会ベースになってしまった原因は、
- 「学校」という枠組の中で、「お利口さん」であることが美徳であると潜在意識に刷り込まれた。
- 儒教的道徳規範による縦社会の正当性を常識として植え付けられた。
- 教会系統のシステムによって絶対的な縦社会が生まれ、改革が起こりづらい雰囲気が100年以上続き、古い制度がある種の常識として定着してしまった。
こんな感じで、ボクは認識しています。
ぼんやりとイメージはしていましたが、この本を読んで確信したと言う感じです。
そもそも、信仰の自由を勝ち取るため教会制度だったはずです。
それが、系統で縛られ、「理の親子関係」という謎のシステムが常識として根付き、目上の人の言う通りにし、我慢することが美徳である日本人には、疑うことすら許されなかったので、多くの信仰者を教会ベースに変化させてしまったのでしょう。
では、これからボクたちはどうしていくべきなのでしょうか。
自らアクセルを踏み、ハンドルを切る力=没頭力
そもそも、信仰が教会ベースになってしまっていた理由は、
- 我慢強く、お利口さんであることが美徳とされている日本の文化
- 儒教的道徳規範
- 古い常識への信仰
によるものだと考察しました。
この本の中に限らず、ホリエモンは「とにかく自分のやりたいことをやれ」と主張しています。
では何故人はやりたいことができないのか。
ホリエモンはその原因を「やりたいことをやらないから」だと認識していました。しかし、なぜやりたいことがあるのに実行しないのかが、ずっと謎だったといいます。
その理由が「アクセルを踏みながら、同時にブレーキを踏んでいるから」という結論に達します。
そのブレーキを踏んでしまうことの習慣が「学校」によって刷り込まれたといいます。
…僕はこれまでの人生で、親や学校教育に忠実だったことは一度もない。僕が唯一従っていた相手は、何かにのめり込んでいく自分、すなわち「没頭」だった。それが僕を数々の遊びに、パソコンに、そして幾多のビジネスに向かわせてきた。僕にお金や学び、そして何より生きる楽しさを与えてくれたのは、学校ではなく、没頭という体験だったと断言できる。
中略
…大切なのは自らアクセルを踏み、ハンドルを切ることだ。そして、なにより「それをさせる気持ち」だ。早く先へ進みたい、じっとしていられないというワクワク感こそが、あなたにアクセルを踏み込ませるのである。
引用元:すべての教育は「洗脳である」〜21世紀の脱・学校論〜
では、無意識で踏んでしまうブレーキを踏まずに、やりたいことを実行するにはどうしたらいいのでしょうか。
それをホリエモンは「没頭する力の解放」だと表現しています。
新しい時代を生き抜くために必須の能力
…自分で行き先を決め、アクセルを踏む生き方のためには、「学び」が不可欠だ。
中略
…僕がいう「学び」とは、没頭のことだ。
脇目もふらずに没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。だから、没頭する対象は数学や英語、料理だろうと、ダンスだろうと何でもあり得る。すなわち、その人が心から没頭できていれば、対象は何であれ、僕はそれを「学び」ととらえる。
中略
…「お勉強」は、あくまで受動的な行為である。中略…当然ながら、ここには「与えてくれる」存在がいる。
中略
…対して「学び」は、常に能動的だ。道の領域に足を踏み入れ、新しい体験や考え方を味わうことのすべてがこれにあたる。だから、場所は学校や企業に限定されないし、正解もいらない。すべては、「自分で切り拓いていく」営みなのである。
引用元:すべての教育は「洗脳である」〜21世紀の脱・学校論〜
「お勉強」は受動的な取り組みなので、敷かれたレールに乗っているだけなのに対して、
「学び」は能動的なので、自分で行きたい所に行く力が身に付くんですね。
「学び」を重ねることで、自分が行きたい所、なりたい自分になれるっていうことなんですね。
ということは、「学び」とは自分が行きたい所、なりた自分になるためのコンパスになるということでしょう。
天理教2.0が目指す世界
話を一番最初に戻しましょう。
「天理教はなぜ低迷しているのか?」
という問いに対してのボクの答えはこうです。
「自分の「want」に制御をかけ、人生を遊びたおしていないから」
です。
天理教が低迷しているのではなくて、天理教に関わる人が人生を楽しんでいないからなんです。
天理教の教えは普遍的なもの。
普遍的な教えを、100年前の常識で表現し、通り方を限定させてしまっているからなんです。
限定された信仰スタイルが常識として定着し、絶対的な縦社会によって変化することを忘れてしまった結果、自分の人生を楽しむという人間として当たり前の感情すら失くしてしまったと感じているのはボクだけでしょうか。
少なくともボクの周りの天理教は、完全にどん底です。精神的にも体力的にも。
ボクは、自分の人生を楽しむために、更なるインプットや学びを重ね、没頭する力を解放させていきたいと考えています。
そして、ボクのように悩んで教会で腐り散らかしている、若い会長さんや後継者、そしてその家族が、信仰者として再び世の中ために立ち上がるためのお手伝いをさせていただきたいと思っています。
お供えに依存しない教会を目指し、自分の才能を活かして自分の力で稼せぎ、のびのびと楽しい信仰のあり方や生き方【天理教2.0】になるためのお手伝いを。
あなたのやりたいことは何ですか?
ボクと一緒に探してみませんか?
今日も一日陽気ぐらし!
コメント
わりと同じテーマをこの頃ちょうど考えてたよ。教会どうやったら全体数減らす方向に行かないかなあって。後継者が立たないとか、信者がいないなら、無理しなくていい、教会たたんじゃえばいいだけなんじゃないの?ってね。