どうも、コムヨシです。
昨日、青年会本部の例会が陽気ホールで行われました。
昨年1月の本部例会が初めて陽気ホールで行われたんですが、そのスタイリッシュな雰囲気や「喜ばせずには帰されん」の心がビシビシ伝わってくる、とても心地よいものでした。
今回も参加しようかと思っていたんですが、例会の様子を生配信するという告知があったので、スマホ片手にビール片手に例会の模様に注目しました。
生配信された動画はすでに削除されていたので、こちらをどうぞ↓↓
打ち出された要点をまとめてみると
- 大人の鼓笛バンドステージ
- ダンスバトル
- カラオケ選手権
- タッチフッド(タックルなしのラグビー)
- フットサル
- 100FES
- 模擬店
といったところでしょうか。
個人的には、タッチフッドやフットサルがとても面白そう。
なんならチームを組んで出場したいくらい。こういった催し物を活用して地元の友人なんかを初参拝やおぢば帰りに誘うカードにできればなって考えたりしています。
27日は間違いなく空前絶後の超絶怒濤の盛り上がりとなることは間違いありません。
そんな配信をみながら、ちょっと思ったことがあったのでそれをまとめてみようと思います。
いまの働き方で大丈夫だろうか
いま、世の中が大きく変わろうとしています。
ボクはよく分からないけど、現在この世に存在するほとんどの職業はAIに移行されてしまうそうなんです。
たしかに、人件費や仕事の正確性なんかを考えれば、遅かれ早かれそういった時代がくることは間違いないと思います。
そんな変化にある中で、世の中では「働き方改革」なんて言葉や「好きを仕事に」とかっていう考え方がどんどん広がってきているように感じています。
宗教の世界も天理教に限らず、いま大きな決断を迫られているように思えてなりません。
宗教の存在意義は変わらなくても、時代によってアウトプットのカタチを変化させないと、絶対に取り残される時が来てしまうんですね。もうすでにそんな感じになっちゃってますが。
「仕事なにしてるんですか?」って聞かれた時に窮するようになってしまった
ボクは、いわゆる一般的な仕事に就いたことがありません。学生時代にちょろっとバイトしたくらいです。
天理教の素晴らしさに目覚め、布教師こそがボクの使命だ! これが仕事だ!
という考えに至りました。
なので、「仕事なにしてるんですか?」って聞かれた時は、「天理教です」って答えてきました。
でも最近、それが言えなくなってきました。
決して自分が天理教であることに自信がないわけではないんです。
たしかにボクは天理教の教会長をしているわけだけど、教会長の仕事って何? って自問したときに、特に決まったことがないことに気づいたんです。
- おつとめ?
- 布教?
- 支部例会?
どれも会長じゃなくてもできることばかりです。
しかもそのどれも、ボクは一生懸命取り組んでいるわけではない。
天理教をやるっていうのは、天理教の教えにそった生き方をするっていうことだと思っています。
その生き方をしている上で、じゃあどんなことで人の役にたつことをしているか、世の中のためになる仕事をしているかっていうことが大事だと思うんです。
天理教が世界をリードする
自分の好きなことや得意なことを仕事にして、たくさんの人の役にたつことを生き甲斐にしている人がたくさんいます。
「人たすけたらわが身たすかる」
っていうのは、完全にこの世の真理だから、教えを聞かなくても気づける人は気づく。
そういう人が増えている。
天理教の教えってこの世の真理。
世の中で成功している人は、必ず天理の教えに通じる行いをしている。だから成功する。
これから生き残って行くのはそういう生き方を実践出来る人だと思います。
教えを知らなくても実践出来る人が増えてるとはいえ、その真理に気づけない人の方が圧倒的に多いでしょう。
天理教の使命は、そういう人達のために生き方や働き方を推進していくことでしょう。
そのためには、自分たちが自信を持ってその生き方や働き方を実践していく必要があります。
それを推進できるのは、われわれ青年会です。
遅くとも、この先10年で世界は大きく変わるでしょう。その10年の間に、教会や信仰のあり方も大きく明暗が分かれてきているはずです。
その時アナタはどうするか。
今年の青年会創立100周年は、そのきっかけになることを願ってやまないし、きっかけにならなければならない。今だからこそ変われる。逆に今じゃなければ変われないのかもしれません。
そのためには本部からの打ち出しに沿い、その上で独自性のある「仕事」を展開していく、この二つ一つが大事になってくるでしょう。
でもこれには落とし穴があって、独自性を見つけるのは時間がかかるから、「とりあえず打ち出しや言われたことを一生懸命やっておこう」っていう考え方になってしまって、結局独自性を見つけれずに終わってしまう。これでは今までと変わらないんです。
打ち出しに沿うのは大事ですが、それが素直だとはき違えてしまう。それは素直ではなくて単なる「思考の停止」です。
素直さももちろん大切ですが、まずはワガママなくらい独自性をもつことを優先しましょう。
青年会が変われば間違いなく天理教は変わることができます。
天理教が変われば世界が変わります。
世界をリードするのは、アナタの働き方かもしれません。
今日も一日陽気ぐらし!
コメント
初めてたどり着いて色々な記事を読ませていただき、感銘を受けました。
直接、連絡を取れるメールかTwitterみたいなものはやってらっしゃらないのですか?
コメントありがとうございます。とても励みになります。
ブログ用と個人ののFacebookをやっています。
ブログ用は
「心を動かせば世界が拓けるcom-yoshiブログ」という名前で、主にブログ更新のお知らせをしています。
個人は
「小向善幸」で検索していただければ見つかると思います。
そちらの方で、Messengerから連絡を下さればと思います。
よろしくお願いいたします。
私は命の泣き声という名前でネット上で自分のうつ病の症状と天理教に対する負の感情をネットに上げているものです。
今回、初めてコムヨシさんのブログを読ませていただいて本当に良い記事だと思いました。
私自身は憎かった天理教とは、心身ともに離れることによりようやく安定した生活を手に入れつつあります。
私は幼少期より天理で育ちましたので、天理教組織にコミットしたままの友人が気掛かりな部分も少しはあったのかもしれません。
ここでコムヨシさんの記事により、こういう風に信仰に向き合っている人もいるのか、ととても新鮮な驚きがありました。
また、少し安心することができました。
苦労も多いかもしれませんが、ブレずに、今の姿勢を貫いて、是非頑張ってほしいと思います。
環境や立場は違うかもしれませんが、同じ真理を目指しているような気がします。
応援しています。
はじめまして
いきなりとんでもない事を言いますが、
天理教が現在説いている教えと、教祖の教えは違います。
http://order.mandarake.co.jp/order/detailPage/item?itemCode=1072436299&ref=1051448696
こちらの書籍を読むとその矛盾がよく分かります。現在入手困難ですが。
巻末の解説文を引用します。
『本書「中山みき物語」はノンフィクション・中山みきの生涯ともいえる伝記です。数多い宗教の宗祖・開祖と言われる人の伝記にはフィクションは付き物と思われています。その目的は多くの場合、開祖・宗祖を立派な人と思ってもらいたくてなされています。伝記が実像と離れて語られる原因の大きなものをあげれば、
①真実を知らない
②その教えを悟り違えている
③作者が価値あると思うことを誇張すること
の三つであると思います。したがって年月の経過とともに、真実像の記憶が薄れ, フィクションが増してしまい読む人もそれを承知でいることが多いと思います。
神仏にあわれみを 乞い恵みを願う宗教で神と人とが隔絶した間柄であれば開祖を神と人との中間の不思議な存在にしていてもかまいません。
天理教の教祖と称される中山みきの場合はそういうわけにはいきません。
中山みきは、人は神の子として生まれ育てられ成人して神の心を持ち、神の社(神の心の入れ もの)との自覚を持って生きることを教えました。 中山みきの言行は 神の心の表われであり,ひながた(手本)と呼ばれ、人間が生きるべき姿ということになるのです。 神の心をどう理解するか、中山みきの言行をどう受けとめるか,またどのように伝えるかで信者の行動を変え、世界を変えることにもなるのです。中山みきは、それまでにない「真実の神の話」を説くと宣言して、旧来の教えを「拝み祈禱」 「高山の説教を捉えて、けじめをつけました。 真実の神の話とは、すべてのものが調和をとるために,それぞれの個性を生かして補い合い、 たすけ合うという生き方であります。そして一人の人間の生き方では、世界たすけるために働い た転輪聖王のような心になって働く生き方を理と教え、理を神と尊び、人が理に基づく言行によって,世界1人残らずが陽気に勇んで暮せる陽気づくめ世界を実現する生き方を教えました。教祖の教えの特徴である「つとめ」を「難渋をたすけ、ろっく(平ら)の地に踏み均らす,心定めのつとめ」と教えました。 拝み祈禱とは,神仏を超自然的支配者と考えて神仏に恵みを願い神が理想的世界を造り仏が浄土に迎えてくれ、神仏が救うという考え方です。 高山の説教とは、明治になって国是となった思想で 高天原の天照大神が地上を見て「吾が子孫が王たるべき地」と言った神勅に基づいて、民は大君の心に従いシコの御盾となり、水漬く屍 草むす屍となっても、服従しない人々を平らげて天皇による世界統一を目指す、八紘一宇の教育を言うのです。 陽気づくめ世界実現に誠を捧げようという信者たちが出来てきた時,中山みきの長男 秀司が 戸主の地位を利用して天輪王明神という神を祀り、教祖のもとを訪れる人に拝み祈禱の教理を説き迷信に迷わせ利益をあげるために教えを歪めました。 秀司の死後中山家の養子となった真之亮(初代真柱)は、保身と栄達を求めて、中山みきの存中から政府の方針に合わせて古代目本の権力者である皇祖を神として祀り、神道天理教会を作った。そして「皇祖神十柱が中山みきに神憑って八紘一宇の精神を鼓吹する教祖になった」と伝記を作り教えの内容を高山の説教そのものにして、天理教教典を作り、天皇公認宗教の管長にまでなりました。 このような天理教団の歴史は、中山みきの伝記を
①事実を目の前に見て知りながら
②みきの教えを充分知りながら無視して
③背教者を正当化するために
中山みきが存命している時から意図的に歪めてしまったのです。 中山みきの教えは実生活に深く関わっているので、教えや行動が歪められた伝記では、実害が 大きいのです。 例えば天理教の代表的な教理に「おびや(産屋)許し」というお産に関わる話があります。中山みきの言葉と伝えられているのは、 「おびや一切常の通り腹帯いらず、毒忌みいらず、もたれものいらず,七十五日の身のけがれもなし」です。お産にまつわる一切の迷信やしきたりに捉われてはいけない。捉われる心が不安を増す お守りも,おまじないもいらない。神は全人類に安産を許しているのだから安心して生みなさい. という心理的無痛分娩ともいうべき言葉なのです。 ところが天輪王明神を営業していた中山秀司は、母の周辺で安産している人たちを利用宣伝して,あのように安産したければこれを呑めとおびやの御供と称する安産のおまじないを売り出し, まじないに頼ってはいけないという母の教えを承知のうえで、御供によって安産すると教え,遂には御供がなければ安産しないという説き方までして迷信化してしまい、現在でもおびや許しという安産の御供を売り続けているのです。 その他、中山みきが,「貧に落ち切れ」とか「おやしき(中山家)に尽したものは1粒万倍になって返って来る」とか, 「白を黒と言われても服従すれば神がたすける」といったとか,信者を利 用するに都合のよい言行を作り上げて 全てをおやしきに尽せば病気が治る 。治らなくても来世良い処に生れ変わる徳になる」 などと説いて、老人,病人の心につけ込み,社会保障制度を混乱させる程の実害が出て来ているのです。 天理教団の中でも教祖の教えに復元する運動も進められ、教祖百年祭(一九八六年)を機会に 大きく改革が行なわれることが期待されていたのですが,教団指導者たちは利害を先行させ をていた改革も中止し、教祖の真実像を教えることが教団の利益を損なうと、正しい教育にも 制限を加える挙に出ました。 今や少しぐらいの摩擦が起っても, ノンフィクションの中山みきの伝記を世に出すべき時と思 い,昨年は拙著『中山みき研究ノート」(立風書房刊)を出版しました。 そして今回、とみ新蔵さんの『中山みき物語」が劇画で出ることになりました。彼の伯父は教全長さんでしたし,彼の母は布教所長さんで、彼自身も熱心な中山みきの弟子です。世界の将来を考えて止むに止まれん思いで中山みきの生涯を発表したと思います。 偽りを排し、誤りなく解りやすい伝記が出ることになったのです。文字よりも絵で視覚に訴え ることは強烈な印象が残ります。それだけに責任も増します。 文字で書く時は、「明治七年陰歷十一月十五日教祖は山村御殿へ上街道を歩いて行かれました」 と書けば良いのですが絵になると沿道の景色、家並、道行く人が刀を差していたか、ちょんまげ を結っていたか,などと全般にわたって検討しなければなりません。 櫟本分署跡参考館は資料の面で少しはお役に立てたと思います。現在の天理教教義学の段階では最高のものが出来たと思います。
立教一五〇年十二月櫟本分署跡参考館にて
櫟本分署跡保存会代表 八島英雄 』
劇画中山みき物語は手に入らないかもですが、中山みき研究ノートは図書館で取り寄せれますので、もしお読みになられた事が無いならお勧めします。
八島英雄先生について
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/nakayamamiyuki/saibanco/yazimakyogakuzikenco.htm
http://www.ichinomoto.com
http://yashimahideo.net