どうも、コムヨシです。
早いもので、このブログも開設して6ヶ月目に入りました。
アクセスの平均値もちょっとずつ増えて、色々な方に読んでもらっているみたいなんです。とても嬉しいですよね。
今まで全くと言っていいほどコメントがなかったんですが、いわゆる「アンチ」と呼ばれる方々からもコメントをいただくようになりました。
アンチコメントはやっぱりへこみますが、それでも、こんなウンコみたいなブログを読んでもらって、しかもコメントまでいただけるなんて、とても有り難いことですよね。
そんなアンチコメントが増える中、あるコメントが目に止まりました。
以下に抜粋して引用します。
多くの分教会の会長さんとか、 そういった関係者の方のブログって 書いてる方が、 ご年配の会長さんとかで、文体も けっこう堅苦しいのが多い中、 小向さまのブログは 若い人調の話し言葉でとっても読みやすく みるみるうちに引き込まれました。
教会長という責任あるポストにあるにも関わらず 歯に衣着せぬホンネを ブログで公開していただいているので、 うれしく、といいますか共感しております。 一気に全記事の8割くらいを 読ませて頂きました。
教会Deハロウィンとか、 教会deカフェっていう 企画はおもしろいですね。
で、リクエストでございますが、 もしよろしければ、小向さまが 「修養科」に行かれたときの体験談とか 修養科に行かれる前と行った後で、 このような内面の違いがあった、とか 小向さまから見た修養科のいい面、あまりよろしくないと思われる面など、が ありましたら、記事にして頂ければうれしいです。
母が修養科に入っております。 毎日21時半の夕礼後に母と電話で話をしていますが、 だんだん私も修養科に興味がでてきて 入学を積極的に検討するようになりました。
天理教を調べているうちにボクのブログにたどり着いたのもビックリでしたが、「修養科について記事を書いてもらいたい」というリクエストがきたことにはもっと驚きました。
というわけで、依頼主のご期待に添える自信は全くないのですが、天理教の修養科について思いつく限りのことを書いてみようと思います。
3ヶ月で陽気ぐらしの生き方を身につけることが可能なのか
結論からいうと
どちらとも言えません。
はい無責任ですいません。
でもそれはどうしようもない真理なんですね。
全く同じ環境で同じ体験をしても、感じ方に個人差があるのは当然の事です。
じゃあコムヨシはどうだったのか。
何も変わりませんでした。
なぜ変わらなかったのか、クソ人間のコムヨシを変えられなかった修養科ってどんなところなのかまとめてみましょう。
修養科で学ぶこと
修養科の一日はおよそ次のような流れです。
- 起床、洗面、食堂準備(食堂準備がない詰所もある)
- 朝の神殿掃除(朝勤め一時間前に行われ、季節によって時間が違う)
- 朝勤め参拝(各大教会でまとまって参拝)
- 詰所で朝食、登校準備
- 登校
- 朝礼(全体)
- 朝礼(クラスごと)
- 天理教教典・教祖伝・みかぐらうたの授業(午前中は4コマくらい?)
- 昼食、休憩
- おてふり(ダンス)、鳴りもの(楽器)の練習、ひのきしん(午後は2コマ?)
- 各部署でのひのきしん
- 夕方の神殿掃除
- 夕勤め参拝(詰所で修練として勤める場合がほとんど?)
- 修練(ダンスや楽器の練習)
- 夕礼
- 入浴
- 消灯
という感じです。
勉強の側面からみると、午前中は机に座って講義を受け、午後は実践形式の内容でまとめられているという感じです。
修養科の雰囲気
めちゃくちゃ良いです。
おぢば(主に教会本部周辺)は「時間が止まっているような」と形容されますが、本当に時間がゆっくり流れているような印象を受けます。
ボクのように青森のど田舎出身の人間が行っても、そう感じるわけですから、都会の人からしたら本当に止まっているように感じるのかもしれません。
天理教のことはよくわからないけど、天理の雰囲気は好き!
天理教は大嫌いだけど、おぢばの雰囲気は好き!
教会長なんていなくなればいいと思ってるけど、おぢばは大好き!!
信仰のある無しに関わらず、おぢば帰りしたことのある人の多くは、このように感じている方の割合が多いような気がします。
それくらい独特な雰囲気と時間の流れをもっている空間だと言えます。
そこで3ヶ月過ごすわけです。
修養科は男女別のクラス編制だとは言え、老いも若きも、教会で育った者も初めて天理に来たという人も関係なく、机を並べて教理勉強に励みます。
60代、70代はざらで、80代で入学される方も珍しくありません。
車イスがなければ生活出来ない方、酸素ボンベがなければ息が出来ない方、やくざから逃げ隠れるつもりで来た方、
色んな境遇の人達が一つの部屋で、生きることの意味や、これからの生き方を模索していきます。
3ヶ月目には一通り試験があるわけですが、お年寄りの方のほとんどは全くと言っていいほど回答できません。
お年寄りだけでなく、若い方でも結局よくわからなかったという人の方がほとんどでしょう。
それでもほとんどの方が、修了式には涙を流し、別れを惜しみます。
それは、天理教の教理に感動し新しい生き方を手に入れたわけでもなければ、布教意欲に燃え今後の布教人生に武者震いするようなものでもありません。
単に、修養科の雰囲気、そしておぢばでのゆるやかな非現実的な時空との別れ、それを共有した仲間との別れに涙しているのでしょう。
それほど修養科は特別なところなのです。
え?それで?コムヨシはどうだったのよ?
え? ぼ、ぼ、ボクですか??
ボクは、一切泣きませんでしたし、早く修養科終わりたいと思ってましたよ。
もちろん、修養科の特別な雰囲気に癒されたのは間違いありません。
でも、教会で生まれ育ち、天理教の枠内でばかり生きて来たボクにとって、修養科には新しい感覚はなかったし、
「そんなの知ってるよ」
っていう感覚がどうしても抜けないんですね。高慢の極みです。
記憶として残っているのは、やっぱり仲間と過ごした休み時間だったり、ご飯の時間だったりします。
勉強の内容は基本的なことをサラッと学ぶという程度です。
でもそれでいいんですね。
多くの教会長さんがそう思っているように、修養科に送り出して天理教大好き人間に変貌してくるとはこれっぽっちも思ってなくて、修養科のあの特別な雰囲気の中で、少しだけ自分を見つめ直す時間をもてればいいかな、くらいの感覚です。多分。
逆にいうと、修養科で人に与えられるのはそのくらいのもんだと思ってます。
修養科に行くべきか、やめるべきか
行くべきです。
絶対に行くべきです。
なぜなら、あの特別な雰囲気は世界中どこを探しても恐らく存在しません。
世界中を回った事がないのでわかりませんが(猛爆)
もし世界のどこかにあったとしても、そこへ行く旅費や日程なんかを差し引いても、日本人なら圧倒的にお得です。
おぢばは、人類のふるさとと言われます。
おぢばでの出会いが一期一会だったとしても、一期一会で終わらない可能性があります。
実はボク、天理で修養科を受ける前に「ブラジル修養会」というものを受けていました。
これは本部公認のブラジル版修養科です。修養期間は一ヶ月しかありませんが、本部の修養科と同じ扱いになります。反則技ですが、ブラジルからの渡航費なんかを考えると仕方ないのかもしれません。
そんなことを言いたいのではなく、そのブラジル修養会のクラスメートと、天理でばったり再会したんです。
もう二度と会う事はないと思っていた方だったので、再会をとても喜びました。
ボクはコロンビアに二年間いたわけですが、天理教に関係のあるコロンビア人とは再会する可能性がとても高いですが、関係のないコロンビア人とは再会する可能性はほぼゼロでしょう。
上手く言えないんですが、人間のふるさとという認識があり、そこに帰ろうという気持ちが働いているうちは、再会する可能性はとても高いんですね。
まして、修養科は魂レベルでの繋がりや関係が強いとされている人達が寄せ集まっているので、再会する可能性は更に高まります。
本当に上手く言葉に出来ないんですが、ボクはそういう感覚がとても好きです。
まあ、それが修養科にいく理由としては非常に弱いですが。
3ヶ月なんて時間とれるわけねーべ
そんな方のために、3日講習会というものがあります。
全部で三回にわかれていて、3日間ワンセット✖️三回の計9日間。
これは教理修得に的を絞ったもので、3ヶ月分の内容を9日間に凝縮しているので、講師のラインナップもプログラムも綿密に設定されています。
とても濃い内容になっているようです。
しかも、修養科終了と同じ資格を得られます。
現代社会のニーズに合わせたものですね。
おまけ
ググってもらうとこんなサイトもありますのでよかったらご覧下さい。
そしてその中に、こんな動画もあったので貼っておきますね。
ちなみにですが、今年の4月から修養科の体制がちょっと変わったみたいなんです。
大きく変わったと思われるポイントは、数人のグループに分かれて意見交換やシェアリングをする時間ができたことじゃないでしょうか。
講義に対して感じたこととか思ったことをアウトプットできるというのは、とても良いことじゃないかと思いますね。
今回はこれまで!
今日も一日陽気ぐらし!
コメント
コムヨシさま、修養科について
記事で取り上げて頂きありがとうございます。
取り上げて頂けるとは、あまり期待してなかったので、
より一層うれしく思います。
そして記事の内容に嘘のない
現実的な一個人としての生々しいご回答に
改めて感謝申し上げます。
この記事が、今後「天理教 修養科」のGoogle検索で
上位評価&表示されて、
修養科に興味がある
たくさんの人の役に立っている情景が浮かびます。
特に個人的には修養科最終日に
皆で涙を流し、別れを惜しむ理由の
描写というか表現が印象的でした。
>>それは、天理教の教理に感動し新しい生き方を手に入れたわけでもなければ、
>>布教意欲に燃え今後の布教人生に武者震いするようなものでもありません。
>>単に、修養科の雰囲気、そしておぢばでのゆるやかな非現実的な時空との別れ、
>>それを共有した仲間との別れに涙しているのでしょう。
母の修養科生活も折り返し地点に差し掛かりました。
毎日、夜電話で話をしていますが、
明らかに身上が癒え、そして事情が寛解している様子が
すでにうかがえるので、
天理教にはたいへん感謝しています。
ありがとうございます。
にっし〜さん
コメントありがとうございます。
お母様のご身上や事情が良い方向へ向かっているとのこと、大変嬉しく思います。ありがたいですね。
今回、初めて依頼された件に対する記事を書きましたが、今まで思ったことをあれこれ考えずに書くスタイルだったので、自分が特に気に留めていない事柄を記事にすることにとても苦労しました笑
でも、そのお陰でボクのブログスキルが一段階ステップアップしたような感覚です。
依頼していただき、逆にありがとうございました。
今後も、何かしら記事にしてほしい!ということがございましたら遠慮なくお申し付けください!解説でなく個人の感想であればいくらでも書きます(猛爆)
よろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
コムヨシさま、コメント返しありがとうございます。
>>自分が特に気に留めていない事柄を記事にすることにとても苦労しました笑
記事の文字数を数えてみましたら
原稿用紙9枚~10枚分の文字数で、
たいへん手がかかっていて
貴重な時間を割いて頂いたことを
感謝いたします。
>>後も、何かしら記事にしてほしい!ということがございましたら
>>遠慮なくお申し付けください!
お心遣いありがとうございます。
修養科ってインチキ宗教の儀式? やって何も変わらないんなら、やる事無いでしょ? 神様をかたるクソ宗教だね。
修養科は自分自身の今までに気づくとこらろかもしれません。今までの自分自身が使っていた心とおぢはのお徳と仲間たちの姿で少しでも此れからこんな心で通ろうと気づかせて貰う処ですね。
気づいて心を改めて通ろうと思って行くところに素晴らしさがあります。
なんも気づくことなくボンヤリしてるとおぢばから帰っても何の効能もありません。
どうぞ何かを気づき自分自身の心に刻みつけて欲しい。
その心に親神様が働き下されて何倍もの効能の理を見せて貰えると私は思っています。